佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『ハリー・オーガスト、15回目の人生』(クレア・ノース:著/雨海弘美:訳)

2022/09/07

『ハリー・オーガスト、15回目の人生』(クレア・ノース:著/雨海弘美:訳)を読んだ。

 久々の時空を超えることをテーマにしたSF。もともとそうした小説が好きであり、そのうえ友人から薦められたこともあってワクワクしながら読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

一回きりの人生では、語りきれない物語――。
全英20万部突破の“リプレイ"SF大作が待望の日本上陸!

1919年に生まれたハリー・オーガストは、死んでも誕生時と同じ状況で、記憶を残したまま生まれ変わる体質を持っていた。
彼は3回目の人生でその体質を受け入れ、11回目の人生で自分が世界の終わりをとめなければいけないことを知る。
終焉の原因は、同じ体質を持つ科学者ヴィンセント・ランキス。彼はある野望をもって、記憶の蓄積を利用し、科学技術の進化を加速させていた。
激動の20世紀、時を超えた対決の行方は?

解説・大森望

 

 

 

 出版社の紹介に「“リプレイ"SF大作」とあるように本書で扱う時空移動はタイムループです。題名にある「15回目の人生」にそのことは端的に表れています。

「もしも人生をやり直せたら」という仮定は誰もが一度は夢みるものではないか。それも過去の人生の記憶を残したままやり直せるなら、これほど魅力的でワクワクする人生はないだろう。過去の失敗をやり直せるのである。世の中で起こることを予め知っているのである。戦争や事故の経緯と結果を知っている。サッカーの勝敗の結果、競馬の順位や、株価の推移だって知っているのだ。安全に、しかも裕福に生きていくすべは手中にある。過去の記憶の積み重ねは膨大な知識の獲得と深化を可能にする。やり直し(生まれ変わり)が一度だけでなく、題名からして15回もということであれば、これはもうやりたい放題ではないか。夢を叶えてめでたしめでたしかと思いきや、なんとハリー・オーガストの人生は苦難の連続であった。

【ここからはネタバレ注意】

 上に引いた出版社の紹介文にあるように、ハリー・オーガスト(1919年生まれ)は、死んでも誕生時と同じ状況で、記憶を残したまま生まれ変わる体質を持つ。本書はそんなハリーの繰り返される人生をハリーの語りによって読者が追体験するかたちで物語られる。「もしも生まれ変わることができたなら」というのは誰もが一度は夢みる願望だろう。「過去の人生における経験と教訓を生かし次の人生をやり直す」という設定が、読者が潜在的に持つ願望を刺激し、弥が上にも読者を惹き付ける。そのうえ本作がすごいのは生まれ変わるのが可能な人間が一人だけではないという設定だ。この設定がストーリー展開に驚くべき拡がりを持たせている。本作において記憶を持って生まれ変わる能力を有する人間は「カーラチャクラ」と呼ばれる。彼らは有史以前から存在しており、同時代に生きる者は世界を見渡せば何十人何百人と存在している。カーラチャクラは、一般にそうと知られないよう密やかに暮らしつつ、同じ能力を持つ者同士「クロノス・クラブ」という結社を組織し、後からカーラチャクラとして生まれてくる者に便宜を図ることで生きやすくする。もう一つクロノス・クラブの意図するところは、カーラチャクラがその恵まれた資質によりいたずらに未来の改変をしないこと。カーラチャクラはタイムトラベラーではない。なぜ未来が改変されようとしていることが、現世に生きているカーラチャクラにわかるのか。クレア・ノース氏はここに驚くべきからくりを作り上げた。カーラチャクラが過去から未来、未来から過去へ伝言ゲームをするのである。過去から未来への情報を伝えることは比較的容易だ。その手段さえ未来の人間に伝わるようにすれば良い。しかし未来から過去への情報はどうだろう。タイムトラベルなしにそれをするのは一見不可能に見える。しかし、やり方はあったのだ。生まれ変わって間のないカーラチャクラ(本作ではカーラチャクラは4才頃には前世の記憶がすべて蘇るということになっている)からもうすぐ死を迎えようとする老いたカーラチャクラに伝言するという方法で1世代ごとに未来の情報を過去に伝えていくことが可能になるのだ。このクロノス・クラブの存在、そして伝言ゲームを物語に組み込んだことで本作は緊迫した様相を呈し、読者をどっぷりと物語に引き込むのだ。このあたりにクレア・ノース氏のSF作家としての非凡さを感じる。

 ハリーは11回目の人生で世界が終わろうとしているというメッセージに接する。そしてその原因が同士ともいえるヴィンセントがやろうとしている歴史の改変であることを知るのである。ヴィンセントは自分と同じ体質を持ち、知能もずば抜けており、お互いに共感できる存在だが、その彼と15回目までの人生をかけて対決する。このストーリー展開(改変によって歴史が分岐し複数の未来が並行併存するのではなく、未来が置き換わってしまう)からして、本作はパラレルワールドとして読むのではなく、過去、現在、未来を一本の時間線として読むべきなのだろう。つまりヴィンセントによる歴史改変の結果、未来が書き換えられ世界の終わりが来る、逆にそれを阻止することで未来が救われるという設定は、世界が過去、現在、未来と一本の時間線で繋がっており、過去と現在の成り行きによって未来が完全に置き換わるということを前提としている。そうするとヴィンセントの歴史改変を阻止したとたんに未来が置き換わるというのか。ならばそもそも「世界が終わろうとしている」という未来からのメッセージ(このメッセージが過去に向かって発せられたのは確定した未来であるはずだが)もなくなってしまうのか。いやいややはり歴史が分岐したパラレルワールドがあって、本作では数ある併存世界のひとつを描いたに過ぎないということなのかもしれない。などと、処理能力の低い私の脳の中はぐちゃぐちゃでオーバーヒートしそうである。他の時間モノSFでは歴史が改変されてしまうことを阻止するために、未来からタイムトラベルしてきたタイムパトロールが取り締まって改変を阻止するといったことがあったり、あるいは時間宇宙が改変による矛盾を抱え込むことを許さず、宇宙が強制的にあるべき歴史に戻してしまうというものがある。あるいは改変した時点で宇宙が崩壊してしまうというものまである。本作中にもハリーの6回目の人生においてケンブリッジ大学の専任講師を務めていたハリーとその学生ヴィンセントの初めての邂逅場面で多元宇宙論について激しく議論を戦わせる場面がある。P85からP94にわたる緊迫した議論の場面は読み応えたっぷりだ。この邂逅から二人がお互いの能力を認め合い、同能力者としてのシンパシーを持ち、一時は協力して研究を行ったが、やがて袂を分かち対決するというストーリーはなかなか良い。お互い最高の知能を持つ者同士としてリスペクトし合い、かけがえのない同類としてのシンパシーを感じつつも方向性の違いのために争わなければならない運命が紡ぐ物語は、手に汗握る緊迫感と共に怒濤のいきおいで読者に迫ってくる。時間モノSFとしては、なかなかツッコミどころが多いかもしれないが、それがまた本作のおもしろみでもある。読書会の課題本にでもすれば議論百出間違いなし。その意味で本作は最高の時間モノSFの一つでありましょう。

 余談であるが、死んでも死んでも何度でも生まれ変わる、それも過去に生きたときのことをすべて記憶に残したままという人生を繰り返すのはどのような気分なのだろう。それはもう一度生まれ変わることを心から喜べるかどうか。それは生きた記憶が幸せだったか不幸だったかで違うのかもしれない。過去の生の経験から、生まれ変わりの人生はより良いものにしようとする。あるいは物事の真理を見極めようと努力してみる。そうして知識と経験とその記憶はどんどん積み重なっていく。そうしたことで回数を重ねた人生はどんどん豊かになり、人間性もまた深まるだろう。しかし問題は人間がそれほどまでの記憶に耐えられるかどうか。普通の人間は皆死んでゆき、生き返ることはない。その喪失感はけっして埋まることはない。過去にしてしまった過ち、人間が持つ禍々しい側面、世界のすべてが正しく調和し人びと全員が幸せに暮らすことなどあり得ないという現実、人間を知れば知るほどそうしたことは地獄の責め苦として己を悩ませるに違いない。けっして忘れられないことの責め苦は想像以上で、人はそれに耐えることができないのではないだろうか。そんなこともふと考えてしまう。

 ちなみに本書の原題は ”The First Fifteen Lives of Harry August" となっており、ハリーの「最初の」15回目の人生です。ということは16回目以降も、おそらくは何百回、何千回、何万回と繰り返されることが予測されます。何者かが過去の世界を大きく変えてしまって世界が終わってしまわないかぎりということですが・・・。それぞれの人生でハリーがどのように生きていくのか、あるいは記憶を持ったまま人生を繰り返すことに堪えきれず自分で記憶を消そうとするのか、あるいは何らかの方法で自らを生まれ変われなくしてしまうかも・・・と勝手な想像を巡らせたりします。でもとりあえず16回目の人生ではもう一度ジェニーとやり直させてあげたいものだ。そう4回目の人生の失敗を踏まえたうえでもう一度ジェニーと幸せに暮らさせてあげたい。ひょっとしてクレア・ノース氏は続編を書くだろうか。しかし「ハリーはジェニーと幸せに暮らしましたとさ」では小説にならないな。そういえば「成就した恋ほど語るに値しないものはない」とは彼の森見登美彦氏が『四畳半神話体系』に記した名言であった。奇しくもこの小説はパラレルワールドもの。また森見氏が劇作家・上田誠氏とコラボした小説と映画『四畳半タイムマシンブルース』は歴史改編SFものであったなぁ。

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