佐々陽太朗の日記

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『わたしたちに手を出すな』(ウィリアム・ボイル:著/鈴木美朋:訳/文春文庫)

2022/09/21

『わたしたちに手を出すな』(ウィリアム・ボイル:著/鈴木美朋:訳/文春文庫)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

作家・王谷晶さん(『ババヤガの夜』ほか)感嘆!

まさにシスターフッドどまんなか。
これこれ、こういうのが読みたかった!
という感動に胸躍らせながらページをめくった。
――王谷晶

ハンマーを持つ殺し屋から逃げる3人の女。
米英仏のミステリー界が推す新人が放った逃走と感動のシスターフッド・サスペンス。


私、人を殺してしまった――
言い寄ってきた老人を灰皿で殴り倒した未亡人リナは、倒れ伏した相手を前に愕然とした。マフィアの大物だった夫を亡くした彼女には、頼れるのは娘しかいなかった。だが娘の家へ駆けこんだリナを待ち受けていたのは、ハンマーを持つ殺し屋の襲撃。娘の愛人がマフィアの取引を襲撃し、金を強奪したというのだ!隣家に住む元ポルノ女優ウルフスタインと高校生の孫娘を道連れに、リナの逃避行が始まった――
気鋭のミステリー作家が女たちの絆を描く傑作。

「友情って最高のロマンス」 という言葉が、 この物語のテーマの一つなのかもしれない。(略)ドライでなおかつ熱いところもある女の友情は、 まさにシスターフッドどまんなかという感じ。 (略) とにかく女がかっこいいのだ。ハードボイルドが男の専売特許でないことに世の中が気付き始めて久しいが、 美女スパイでも私立探偵でもない街のそのへんに居る女同士のハードボイルドが一番しびれる。
これこれ、 こういうのが読みたかった! ――王谷晶(本書解説より)

 

 

 

 ウィルアム・ボイル氏は初読み。その名もどんな経歴の方かも何も知らないまま読んだ。主人公たちが女性ということもあって、作者も女性だと勘違いしたまま読んでいた。名前からして男に違いないのに迂闊であった。しかしほんとうに男が書いたのかと疑うほど違和感が無かった。

 主人公のリナは九年まえに夫を亡くした六十歳の独り身。亡夫はマフィアの一員だったが良くできた男で、リナとの生活にまったく稼業を影響させなかった。だからリナは「極道の妻」といった気っ風などなく、ごく普通に生きている未亡人である。ある日、近所に住む老人エンジオがいやらしく口説いてきた。やめなさいと警告したがバイアグラを飲んだエンジオは止まらない。たまらずリナは灰皿をいけ好かないエロじじいの頭に振り下ろしてしまった。こんなふうに物語ははじまり、リナがエンジオの愛車(シボレー・インパラ)に乗って逃亡し、そこから事態はめまぐるしく動き出す。それもコントロールできない悪い方向に。果たしてこの物語の行方はどうなるのか、バッドエンドなのだろうかという不安がふと頭をもたげるが、いやハッピーエンドに違いないという確信めいたものがたちまちそれを打ち消す。なぜならこの物語で窮地に陥る女ども(リナ、リナの孫娘ルシア、逃亡の途中で知り合った元ポルノ女優で詐欺師のウルフスタイン、ウルフスタインの親友モー)がクソ逞しいからだ。そして逃亡しながら深まる彼女たちのつながりは理屈ではない強さを持つ。カッコイイじゃないか。こいつらはぜったいくたばらねぇだろう。そんなふうに思える愉快な小説だ。

 私が好きなところは主人公のリナ、そしてリナと馬が合い一緒に逃げることになるウルフスタインの価値観だ。たとえばリナは「ものごとには順序があり、神さまやみんなの目に正しいと映ることと映らないことがある」と考えているような女性だ。またウルフスタインは七〇年代から八〇年代、エイズが流行る前のころを懐かしむ。「その頃は今と全然違う時代で、男はみんな毛深いままで、女はおっぱいに詰め物なんかしてなかった」と。もう年老いてしまったババアの価値観じゃないかといえばそれまでだが、そうしたところに大切なものがあるという感覚には共感できる。なんのことはない、私もまたジジイにすぎないのだが。

 好きなところはもうひとつある。それは今の時代にすっかりなくなってしまったある種の「寛容」である。今は亡きリナの夫はマフィアであったが、堅気の人も含め多くの人が立派な奴だったという男で、そしてリナはその妻である。ウルフスタインは元ポルノ女優で、女優をやめたあとは歳をとった独り身の男をたらしこみ金をだまし取っていた過去がある。けっして褒められたもんじゃない。しかしこの小説はそんな彼女らに活躍の場をあたえる寛容さがある。そう、私は何でもかんでも正義を振りかざす今の風潮に嫌気がさしている。息苦しくてたまらないのである。そして今の風潮の一番イヤなのは、そんな風に正義を振りかざす奴らも皆、実はそんなに清廉潔白じゃないところ。完璧な人間など存在しない。皆、強くもなければ、人に言えない恥ずかしいところを持っている。そんな自らを省みず、人の悪いところを指摘し徹底的に攻撃し追いつめようとする(立⚫⚫⚫党議員がよくやるような)行為の嘘くささが大嫌いなのだ。自分を省みて自分の中に弱さや卑しさ、薄汚い部分があると知る人間は人に寛容になれるものだろう。そうした寛容が作者ウィリアム・ボイル氏にはあるのではないか。

 最後に本書の解説で王谷晶氏がさかんに本書のハードボイルド・テイストを褒めておられる。私も同感である。一カ所だけお気に入りのセンテンスを引いておく。

 外に出ると、消火栓のそばにとめておいた白い八二年型キャデラック・エルドラド・ハードトップ・クーペへ歩いていき、運転席に乗ってイグニッションにキーを差し、エンジンをかけてアイドリングさせる。グローヴボックスからとっておきのディ・ノビリ・トスカーニの葉巻を取り出す。車のライターで火をつけ、窓をあけて煙を吐き出し、ラジオをつけてよさそうな局を探した。ヘンドリックス。スプリングスティーン。イエスを流している一〇四・三に決める。クラブを見張る。

                         (本書P117より引用)

 いいねぇ。シビれます。ジジイの趣味だと笑わば笑え。