佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『童の神』(今村翔吾:著/ハルキ文庫)

2022/11/16

『童の神』(今村翔吾:著/ハルキ文庫)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

「世を、人の心を変えるのだ」「人をあきらめない。それが我々の戦いだ」―平安時代「童」と呼ばれる者たちがいた。彼らは鬼、土蜘蛛…などの恐ろしげな名で呼ばれ、京人から蔑まれていた。一方、安倍晴明空前絶後の凶事と断じた日食の最中に、越後で生まれた桜暁丸は、父と故郷を奪った京人に復讐を誓っていた。そして遂に桜暁丸は、童たちと共に朝廷軍に決死の戦いを挑むが―。差別なき世を熱望し、散っていった者たちへの、祈りの詩。第一〇回角川春樹小説賞(北方謙三今野敏角川春樹選考委員大激賞)受賞作にして、第一六〇回直木賞候補作。

 

 

 

羽州ぼろ鳶組』シリーズで今村氏に出会いすっかり魅了された。8月には『八本目の槍』を読んでやはり今村氏は手練れのストーリーテラーだと確信した。そして本作である。本の帯に「・・・候補中、娯楽性はナンバーワンだ。」との東野圭吾氏の直木賞選評が紹介されているとおり、ワクワクしながら読ませていただいた。本書は第160回直木賞候補作、第10回山田風太郎賞候補作、第10回角川春樹小説賞受賞作であり、その評価は非常に高い。

 第10回角川春樹小説賞選評も引いておく。

  • 小説的な重層性があり、書き手の力量を感じた、抜群の作品。(北方謙三
  • 平安時代のオールスターキャストが登場。『水滸伝』のような作品。(今野敏
  • 非常にスケールの大きいずば抜けた受賞作の誕生を喜ぶ。(角川春樹

 

 本作をカテゴライズすればエンターテイメント小説というのが適切だと思う。しかしその中に国や地域の共同体はどうあるべきか、あるいは権力と政治はどうあるべきか、そうしたことについての今村氏の熱い思いがにじみ出ている。

 人の上に立つ者、それは権力者であったり、まわりからの信任の厚い指導者だったりするが、その者の振る舞いには二とおりある。一方は力に対する執着が強く、強欲で邪で非情な振る舞いにおよぶ者。このタイプは民のことなどろくに考えることなく、民は自分に奉仕するために存在するのであって、自分にとって役に立たなければ切って捨てる。つまりは権力者。自分が権力を持つことを当然と考えており、思考の中に善悪の判断など無いから行動に迷いがなく手強い。もう一方はけっして理不尽を民に強いることなく、道義で人を導く者。理想であり、誰もがそうありたいと思うはず。前述したもう一方の権力者でさえ自分もそうありたいと思うほど魅力的なリーダー像だ。しかしいかな権力者であっても実際にそれほどの徳と能力を兼ね備えることはなかなか出来ることではない。何十年、何百年に一人出現するかどうかの天賦の才である。それだけにその存在は強烈な光を放ち、民衆の心を惹きつけカリスマ的ヒーローとなる。これら二者を単純に言ってしまうと前者は不義、後者は正義ということだろう。とすると、「正義が勝って不義が敗れる」はずである。しかし歴史は必ずしもそうなってこなかった。確かに正義は人を突き動かしムーブメントをつくり出す。世の不条理を正そうとする動きである。しかしそうしたムーブメントもその理想とする姿を結実することなく不義に敗れ去ることがままあるものだ。戦いというものはけっして生易しくはない。正義は正義ゆえに己の手を縛らざるを得ない。つまり邪な手、卑怯な手、賤しい手は使えないのだ。それゆえ無残に敗れ去ることもある。しかしそれでも志ある者は正義を為そうとする。たとえ今は敗れたとしても、自分の描いた理想の姿を未来に託す。今村氏はそうした事を書きたかったのではないか。私は本書を平安時代のヒーローの心躍る大活劇として楽しんだ。しかしそれだけではないものが本書にはある。

 心に残る科白を引き記し記憶にとどめておきたい。

  • 「飯を喰らって眠り、女を抱くだけでは生きるとは言わぬ。生きるとはもっと別のものよ」 P45
  • 「お主らが何を生む。すべて我らから奪い取ったものではないか」 P109
  • 「戦のない世などと、戯言を申すまいな」 P250
  • 「罪のない命を奪われるくらいなら、戦って死んだほうがどれほど良いだろう」  P327
  • 「卿は人の醜さを知っておられる。蔑む者がいてこそ、民の心は安らぎを得ることを。そうでなくては民に生まれる不平不満は行き場をなくして上に向かう。さすれば一族の万世の安寧はないとお考えだ」 P368
  • 「だが・・・・・・人は立って死なねばならぬ時もある」 P440

 今村氏は夢みる現実主義者なのかもしれない。