佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『同志少女よ、敵を撃て』(逢坂冬馬:著/早川書房)

2022/12/23

『同志少女よ、敵を撃て』(逢坂冬馬:著/早川書房)を読んだ。図書館本である。予約して半年以上待った。それほど人気のある小説です。

 復讐劇、しかもスナイパーものである。もうそれだけでワクワクする。まさに私の大好物だ。しかもそのスナイパーがうら若き女性ともなればおもしろくないはずがない。世間の評価どおり、読んで損はない面白さだった。

 出版社の紹介文を引く。

【2022年本屋大賞受賞! 】
キノベス! 2022 第1位、2022年本屋大賞ノミネート、第166回直木賞候補作、第9回高校生直木賞候補作
テレビ、ラジオ、新聞、雑誌で続々紹介!
史上初、選考委員全員が5点満点をつけた、第11回アガサ・クリスティー賞大賞受賞作

アクションの緊度、迫力、構成のうまさは只事ではない。
とても新人の作品とは思えない完成度に感服。──北上次郎(書評家)

これは武勇伝ではない。
狙撃兵となった少女が何かを喪い、
何かを得る物語である。
──桐野夏生(作家)

復讐心に始まった物語は、隊員同士のシスターフッドも描きつつ壮大な展開を見せる。胸アツ。──鴻巣友季子(翻訳家)

多くの人に読んで欲しい! ではなく、
多くの人が目撃することになる
間違いなしの傑作!
──小島秀夫(ゲームクリエイター)

文句なしの5点満点、
アガサ・クリスティー賞の名にふさわしい傑作。──法月綸太郎(作家)


独ソ戦が激化する1942年、モスクワ近郊の農村に暮らす少女セラフィマの日常は、突如として奪われた。急襲したドイツ軍によって、母親のエカチェリーナほか村人たちが惨殺されたのだ。自らも射殺される寸前、セラフィマは赤軍の女性兵士イリーナに救われる。「戦いたいか、死にたいか」――そう問われた彼女は、イリーナが教官を務める訓練学校で一流の狙撃兵になることを決意する。母を撃ったドイツ人狙撃手と、母の遺体を焼き払ったイリーナに復讐するために。同じ境遇で家族を喪い、戦うことを選んだ女性狙撃兵たちとともに訓練を重ねたセラフィマは、やがて独ソ戦の決定的な転換点となるスターリングラードの前線へと向かう。おびただしい死の果てに、彼女が目にした“真の敵"とは?

 

 

 

『戦争は女の顔をしていない』 これはノーベル文学賞作家、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの主著の題名である。本書のエピローグにスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチが本書の主人公セラフィマに手紙を送りインタビューを依頼する場面がある。ソ連では第二次世界大戦で100万人をこえる女性が従軍し、看護婦や軍医としてのみならず兵士として武器を手にして戦った。女性が武器を手に戦うなど当時の他国にはなかったことだ。500人以上の従軍女性から聞き取りをおこない戦争の真実を明らかにしたノンフィクションが『戦争は女の顔をしていない』である。

 政治やイデオロギーとはほぼ無関係に貧しい農村に暮らしていた少女がなぜ狙撃兵となり戦ったのか。一般に子どもを産み育てることが宿命づけられているともいえる女性が戦地においてどのように考え敵を撃つことができたのか、その行為をどう自分に納得させたのか、葛藤はなかったのか。敵とはいえ八十人もの人を殺した女性が戦後をどう生きるべきか、いやどう生きることができるのか。そうしたことが本書を執筆する中で逢坂氏が意識していた問題に違いない。エピローグに『戦争は女の顔をしていない』という言葉を登場させた事にそれがうかがえる。本書の主人公セラフィマが狙撃兵になることを決めたのは村人たちがパルチザンと疑われ、自分の母も含め皆殺しにあい、その上自分は殺される前に陵辱されそうになったからである。ドイツ兵に対する憎しみゆえ母と村人の復讐を遂げようと心に誓ったからに他ならない。また物語の終盤、ケーニヒスベルグで幼なじみでほのかな恋心を抱いていた男がまわりの兵士にはやし立てられ、ドイツ軍に従軍していた女を陵辱しようとする場面も描かれる。そして何よりも私がハッとさせられたのは次の場面だ。それはスターリングラードの戦いで市街で孤立化していた部隊の援軍としてセラフィマたち女性による狙撃兵部隊が駆けつけたとき、援軍が女性であったことにいらだった兵士ボグダンと狙撃兵部隊長の女性イリーナとのやりとりだ。

「女かよ、クソが!」

・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・

 増援が女性だったことによほど腹が立つのか、彼は人差し指を突きつけて怒鳴り散らした。

「いいか、とはいえ督戦隊が敗北主義者を排除することに変わりはない。お前ら日和ってフリッツ(ドイツ兵のこと)に投降でもしてみやがれ、この俺が処刑する」

 ふ、とイリーナが笑った。

「何がおかしい!」

 食ってかかるホグダンに、イリーナは一言答えた。

「我々がフリッツに投降できると思っているお前がだ、督戦隊」

 ボグダンがぐっと言葉に詰まった。彼にも意味は理解できたはずだ。

 敵味方を問わず、捕虜となった狙撃兵の処遇は残忍を極める。まして女性となれば、どのような扱いを受けるのか。

 国際法戦争犯罪が叫ばれる現代のウクライナ戦争ですら残忍な人権侵害が行われているのだ。況んや第二次世界大戦において・・・。戦争は銃を取らない女性には夫や子どもの死という過酷を強いる。しかし銃を取る女性にはさらに厳しい過酷を強いるのだ。そのことに気づかされた。

 ウクライナについても覚えておきたい記述があった。

「そう。ソ連だからこうやってロシア語を話すことができる。ソ連だからウクライナ語があったことも忘れてロシア語を使うことを強いられる。ましてコサックなんていない」

・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・

ウクライナがソヴィエト・ロシアにどんな扱いをされてきたか、知ってる? なんども飢饉に襲われたけれど、食糧を奪われ続け、何百万人も死んだ。たった二〇年前の話よ。その結果ウクライナ民族主義が台頭すれば、今度はウクライナ語をロシア語に編入しようとする。ソ連にとってのウクライナってなに? 略奪すべき農地よ」

・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・

ウクライナでは、みんな最初ドイツ人を歓迎していた。これでコルホーズが終わる。これで共産主義者がいなくなる。これで、ソ連からウクライナは解放されるんだって」

「フリッツはあなたにとって味方なの? なら、なぜここにいるの」

コルホーズは解体されなかった。ドイツ人はスラヴ民族を奴隷にするため、コルホーズを維持してウクライナの支配者になったの。・・・・・・どういう意味だか分かる? セラフィマ。コルホーズウクライナ人を奴隷にする手段なの。ドイツにとっても、ソ連にとっても」

 

 何やら理屈っぽいことを先に書いてしまったが、そんなことはさておいてこの物語はおもしろい。久しぶりに寸暇を惜しんで読み耽った。『同志少女よ、敵を撃て』 同志少女とはセラフィマのことだが、その敵とは誰のことだったのか。もちろん母を狙撃により殺したドイツ兵イェーガー、そして軍規に従ったとはいえセラフィマの亡き母と家、そして生まれ育った村を平然と焼き払い、軍への入隊を推した教官イリーナがそれだ。しかし「敵」にはもう一つ意味があった。その衝撃の事実に行き当たったときの驚愕。数多の書評にあるとおり傑作である。

 国の数だけ、人の数だけ正義がある。残念ながら、戦争が惹き起こされる可能性をゼロにすることはできない。そして一旦戦争が起こってしまえば、情況は「正義」などというものを簡単に超越してしまう。憎悪と復讐の連鎖、そして再生産。人道などという言葉は意味をなさない。行き着く先は地獄だ。そうならぬようにという多くの人間の願いは確かにある。それでも争いは起こる。それは人間の不完全さの帰結なのかもしれない。平和は見果てぬ夢だ。