佐々陽太朗の日記

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『私の幸福論』(福田恆存:著/ちくま文庫)

2023/01/16

『私の幸福論』(福田恆存:著/ちくま文庫)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

この世は不平等だ。何と言おうと! しかしあなたは幸福にならなければ……。平易な言葉で生きることの意味を説く刺激的な書。解説:中野翠

【目次】
 まえがき
 1.美醜について
 2.ふたたび美醜について
 3.自我について
 4.宿命について
 5.自由について
 6.青春について
 7.教養について
 8.職業について
 9.「女らしさ」ということ
 10.母性
 11.性について
 12.ふたたび性について
 13.恋愛について
 14.ふたたび恋愛について
 15.結婚について
 16.家庭の意義
 17.快楽と幸福
 あとがき

 

 

 福田恆存氏の本を読むのはこれが初めてのことである。ある保守の論客が「福田恆存を読むべきだ」と仰るのを聞いたのがきっかけである。何から読むべきか迷ったが、国家や政治を論じたものよりはまずは日常のこと、処世術のようなものについて語られたものから入ってみようと本書を選んだ。

「あとがき」によると本書は昭和三十年から翌三十一年にわたって、講談社の『若い女性』という雑誌に「幸福への手帖」という題のもとに連載されたものだという。私がまだ生まれる前、それも女性誌に連載されたものだが、読んでいて全く違和感なく、しかも感じ入るところ多かった。うんうん、そうだそうだと先を急いで読みたくもなったが、そのようにせっかちに読む本ではない。それは福田氏がよくよく考えたことを一言一言丁寧に正確に、しかも分かりやすく読者に伝えようと心を砕いていらっしゃることが良く分かるからだ。

 読みどころは満載だ。というより捲る頁、頁に至言が登場する。そんな中でも私が最もグッときたところは「7.教養について」であります。

 エリオットは「文化とは生きかたである」といっております。一民族、一時代には、それ自身特有の生きかたがあり、その積み重ねの項上に、いわゆる文化史的知識があるのです。私たちが学校や読書によって知りうるのは、その部分だけです。そして、その知識が私たちに役だつとすれば、それを学ぶ私たちの側に私たち特有の文化があるときだけであります。私たちの文化によって培われた教養を私たちがもっているときにのみ、知識がはじめて生きてくるのです。そのときだけ、知識が教養のうちにとりいれられるのです。教育がはじめて教養とかかわるのです。

 これが福田氏の知識と教養、そして教育についての認識です。さらに福田氏は次のように続けます。

 いうまでもなく、教養というものは、文化によってしか、いいかえれば、「生きかた」によってしか培われないものです。ところで、その「生きかた」とは何を意味するか。それは家庭のなかにおいて、友人関係において、また、村や町や国家などの共同体において、おたがいに「うまを合わせていく方法」でありましょう。

 ・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・

 一つの共同体には、それに固有の一つの「生きかた」があり、また一人の個人には、それを受けつぎながら、しかもそれと対立する「生きかた」がある。逆にいえば、共同体の「生きかた」を拒否しながら、それと合一する「生きかた」があるのです。

 そういう意味において、教養とは、また節度であります。

 頭をガーンと殴られたようでした。私が若かりし頃、今よりも少しは血の気の多かった頃、私が悶々としていたことへの答えが端的にここにあるではないですか。私が学生のうちに福田恆存に出会っていればなぁ、こんなオジサンがいたんだという心もちです。とはいえ、それでもたとえ六〇歳を過ぎてであっても福田氏に出会えたことは僥倖ととらえるべきでしょう。

 本書「幸福論」は幸福になるための方法(how to)ではなく生きかたが語られています。誤解を恐れずにいうとそれは「美しく生きること」、そしてそのための「態度」です。よい本を読みました。手元に置き、折に触れ読み返したいと思います。

 記憶にとどめるために本書にある心にとどめたい言葉をいくつか記します。

 なるほど、男女は同権であります。男だけに許されて女には許されないなどということがあろうはずはない。これは男女の間柄だけについていえることではなく、同性間についてもおなじことで、ある人に許されて、ある人には許されない、そんなことがあってよいはずのものではありません。人間は平等です。だが、現実ではそうはいかない。現実の世界では、人間は不平等です。悪いといおうが、いけないといおうが、それは事実なのです。

 ・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・

 与えられた現実を眼をつぶって受け容れろというつもりはありませんが、それだからといって、ただ現実がまちがっているというようなことばかりいってもはじまらない。現実がどうであろうと、みなさんは、この世に生まれた以上、幸福にならねばならぬ責任があるのです、幸福になる権利よりも、幸福になる責任について、私は語りたいとおもいます。 (本書P9 「まえがき」より)

 

 人は美しく生まれついただけで、ずいぶん得をする、あるいは世間でいう幸福な生涯を送りうる機会に恵まれている

 ・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・

 しかし、つぎに私がいいたかったことは、醜いと損をするということ自体よりは、そういう現実からけっして眼をそらすなということであります。なぜ、そんなことをいうかと申しますと、じつは誰だって、顔の美醜が現実社会では大きな役割をはたしていることを承知しているのに、というよりは、よく承知しているからこそ、わざと眼をそむけたいという気もちが働くので、それがかえってひとびとを不幸に陥れるもとになるとおもうからです。

 ・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・

 私は「とらわれるな」といっているのです。醜、貧、不具、その他いっさい、もって生まれた弱点にとらわれずに、マイナスはマイナスと肯定して、のびのびと生きなさいと申し上げているのです。 (本書P18 「ふたたび美醜について」より)

 

 戦後の若いひとたちはよく「だまされた」ということばを濫用しました。戦争中、軍人たちに、国粋主義者たちに、町や村の指導者たちに、ことごとくだまされたという。私にいわせれば、理由はかんたんです。人相と人柄との究極的な一致という原理を無視したからにほかなりません。語っている人物の人相より、語られたことばの内容のほうを信じたからにほかなりません。 (本書P30 「自我について」より)

 

「女らしさ」ということが問題になりはじめた、そもそもの端緒は、いわゆる女性解放ということでありましょう。いままで「女らしさ」といわれてきたことがらの内容は、結局、男の身勝手から、男に都合のいいようにこしらえあげられたものにすぎないのではないか。そういう疑いが女性側から、あるいは女性に同情する男性から提出された。それが事の起こりだと思います。

 まず、私はそういう考えに疑問をもちます。なぜなら、たとえ過去の「女らしさ」が男に都合よくできているものにしても、それは同時に女にも都合よくできているものであったことを、ひとびとは忘れているらしい。「女らしさ」を守ることによって、男も得をしていたが、女も同様に得をしていたのです。このばあい現代人の眼で過去を見てはなりません。

 ・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・

 それならどう思ったらいいか。それぞれの時代にそれぞれの文化があり、それぞれの文化が女の「女らしさ」を造りあげ、男の「男らしさ」を造りあげていたと、そう考えるべきです。そして、両者とも、それで幸福になりえたのです。考えるべきだというより、じじつそうだったとしか思えません。

 ・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・

 まちがいは封建時代という過去にあったのではなく、それが滅び去った現代文化の無様式そのもののうちにあるのです。昔が悪いのではなく、今が悪いのです。あるいは昔のものを今に適用しようとすること、そのことにまちがいがあるのです。

 (本書P98~P100 「女らしさということ」より)

 

 私は、「童貞」や「処女」そのものを珍重しはしません。が、性は秘められるべきものだと確く信じております。恋愛についても結婚についても、そういう秘められた領域は、かならず無くてはならぬものです。

 (本書P141~P142 「恋愛について」より)

 

「理解」はけっして結婚の基礎ではない。むしろ結婚とは、二人の男女が、今後何十年、おたがいにおたがいの理解しなかったものを発見しあっていきましょうということではありますまいか。すでに理解しあっているから結婚するのではなく、これから理解しあおうとして結婚するのです。である以上、たとえ、人間は死ぬまで理解しあえぬものだとしても、おたがいに理解しあおうと努力するに足る相手だという直感が基礎になければなりません。 (本書P184 「結婚について」より)

 

 私たちのなかに信頼感回復の夢が宿るのは、最小単位である一人の男と一人の女との結びつきにおいて、わずかにそれがあるからこそであり、それから推して社会全体にもそれを期待するのではないでしょうか。人が人を信頼できるというのは、一人の男が一人の女を、あるいは一人の女が一人の男を、そして親が子を、子が親を信頼できるからではないでしょうか。それをおいてさきに、国家だの社会だの階級だの人類だのという抽象的なものを信頼できるはずはありません。それゆえにこそ、家庭が人間の生きかたの、最小にしてもっとも純粋なる形態だといえるのです。信頼と愛とが、そこから発生し、そのなかで完成しうる、最小にしてもっとも純粋なる単位だといえるのであります。 (本書P198 「家庭の意義」より)

 

 まずなによりも信ずるという美徳を回復することが急務です。親子、兄弟、夫婦、友人、そしてさらにそれらを超えるなにものかとの間に。そのなにものかを私に規定せよといっても、それは無理です。私の知っていることは、そんなものがこの世にあるものかという人たちでさえ、人間である以上は、誰でも、無意識の底では、その訳のわからぬなにものかを欲しているということです。私たちの五感が意識しうる快楽よりも、もっと強く、それを欲しているのです。その欲望こそ、私たちの幸福の根源といえましょう。その欲望がなくなったら、生きるに値するものはなにもなくなるでしょう。 (本書P222 「快楽と幸福」より)

 

一人でもいい、他人を幸福にしえない人間が、自分を幸福にしうるはずがない

 (本書P223 「あとがき」より)

 

 失敗すれば失敗したで、不幸なら不幸で、またそこに生きる道がある。その一事をいいたいために、私はこの本を書いたのです。

 ・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・

 究極において、人は孤独です。愛を口にし、ヒューマニズムを唱えても、誰かが自分に最後までつきあってくれるなどと思ってはなりません。じつは、そういう孤独を見きわめた人だけが、愛したり愛されたりする資格を身につけえたのだといえましょう。つめたいようですが、みなさんがその孤独の道に第一歩をふみだすことに、この本がすこしでも役だてばさいわいであります。

 (本書P224 「あとがき」より)