佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『日本学術会議の研究』(白川司:著/WAC)

日本学術会議の研究』(白川司:著/WAC)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

 反政府活動をしながら「学問の自由」を叫び、国の軍事研究を邪魔する一方で、人民解放軍ともつながる中国の機関とは共同研究をいとわない「特権階級」。この組織に10億円もの国費が投入されている。日本共産党系左派学者の「巣窟」、学者という名の「赤い貴族」たち。

日本学術会議の考え方は明らかに時代遅れで、現実に対応できていない。終戦直後の平和主義をそのまま理想としている。そのくせ日本や周辺諸国に平和主義的でない中国を捨象している。日本共産党の影響が強いが、私にはむしろ共産党を利用しているようにも見える。なぜこのような組織に国民の血税が使われ続けているのか。その疑問に答えることが本書の考察の中心になっている」(著者)
この本はまさに緊急出版でしたが、構成、内容はきっちりとしていて、著者の力量がなければ世に出なかった名著と言えます。

 

 

 

 本書をの要点は次の段落に記すとおりかと思う。それは私の考えと全く一致するものであった。

 日本学術会議は学者の専門知識を結集するための組織であるはずで、そのために「専門職の公務員」という特別な地位を与えられ、年間10億円を超える公費が充てられているのだ。政府側あるいは反政府側どちらかに偏った政治的主張をするための組織ではない。それは目的からしても、公務員という立場からも当然のことだ。一方、任命する内閣総理大臣(政府)とすれば、国家の予算から費用を支出するからには、政府の方針に沿った活動なり発言をしてくれるであろう学者を選任するのは当然のことである。その時の政府は選挙を通じて国民の多数の付託を受けて政策を推進しているのだから、それは国民の多数の意思に沿うことになるはずだ。もちろん学者は政府の方針に反した活動や発言をしてはならないということではない。そうするのは自由だし、そうしたいのであれば政府関連の組織を離れて一学者、一個人としてやればよいだけのこと。また日本学術会議は「軍事研究をやらない」などと一見立派なことを言っているが、そんなことをいえば多くの先端技術が軍事転用できるということで研究対象からはずれてしまう。古くはダイナマイトや原子力、最近ではインターネット、GPSなどの例を見れば軍事にも使える技術が人々の生活をどれだけ豊かにしているかわかりそうなものだ。有用な科学技術は軍事に転用できるものが多いのだ。しかしそれは使いようによって平和安全保障にも資するものだろう。日本学術会議のいう「軍事研究をやらない」はひとりよがりのとんちんかんな考えで、およそ科学者の言うことではないだろう。

 以上である。

 そこから導き出される答えは「内閣総理大臣日本学術会議のメンバー任命権をもってさらに適正な者に入れ替える」か「諸外国の多くがそうであるように、日本学術会議を公務員ではなく民間組織にする」か「日本学術会議を解散する」のどれかだろう。しかしながら、現政権は毅然とした処置をしないのではないかとのウワサを漏れ聞く。そんなことではいけない。それではせっかく菅義偉前総理のなさったことが水泡に帰す。

 余談ながら、もう二点ほど書いておきたい。

 ひとつは菅前総理が六名の学者を任命拒否したあとの静岡県の川勝知事の発言についてである。その発言を引用する。

菅義偉という人物の教養のレベルが図らずも露見したということではないか。菅義偉さんは秋田に生まれ、小学校中学校高校を出られて、東京に行って働いて、勉強せんといかんと言うことで(大学に)通われて、学位を取られた。その後、政治の道に入っていかれて。しかも時間を無駄にしないように、なるべく有権者と多くお目にかかっておられると。言い換えると、学問された人ではないですね。単位を取るために大学を出られたんだと思います」

「ともかく、おかしなことをしたと思うが、周りにアドバイザーはいるはず、こういうことをすると、自らの教養が露見しますと、教養の無さが、ということについて、言う人がいなかったというのも、本当に残念です」

 なんという偉そうなもの言いか。私ごときが「教養」についてモノ申すことは差し控えるが、そのかわり「教養」についてかの福田恆存氏が書かれたことをここに引いておきたい。少なくとも私には福田恆存氏のほうが川勝知事よりもはるかに教養がおありになると思えます。

 エリオットは「文化とは生きかたである」といっております。一民族、一時代には、それ自身特有の生きかたがあり、その積み重ねの項上に、いわゆる文化史的知識があるのです。私たちが学校や読書によって知りうるのは、その部分だけです。そして、その知識が私たちに役だつとすれば、それを学ぶ私たちの側に私たち特有の文化があるときだけであります。私たちの文化によって培われた教養を私たちがもっているときにのみ、知識がはじめて生きてくるのです。そのときだけ、知識が教養のうちにとりいれられるのです。教育がはじめて教養とかかわるのです。

・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・

 いうまでもなく、教養というものは、文化によってしか、いいかえれば、「生きかた」によってしか培われないものです。ところで、その「生きかた」とは何を意味するか。それは家庭のなかにおいて、友人関係において、また、村や町や国家などの共同体において、おたがいに「うまを合わせていく方法」でありましょう。

 ・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・

 一つの共同体には、それに固有の一つの「生きかた」があり、また一人の個人には、それを受けつぎながら、しかもそれと対立する「生きかた」がある。逆にいえば、共同体の「生きかた」を拒否しながら、それと合一する「生きかた」があるのです。

 そういう意味において、教養とは、また節度であります。

 もう一つは「科学研究費」(以下「科研費」)に関することである。科研費文部科学省が所管する「大学をはじめとする研究機関でおこなわれている研究を助成する支援金」であるが、この科研費を審査する審査委員は日本学術会議の推薦で決められているという。歪に偏った日本学術会議の影響下にある科研費は当然大きな問題を抱えている。ここにその詳細を書くことはやめておくが、国会でこの問題に切り込んだ自民党の杉田議員のことに本書の後段紙面が割かれている。なるほど、杉田氏が左翼系のマスコミや立民、共産から目の敵にされる理由が良くわかった。杉田氏には、このような邪な攻撃に屈することなく頑張っていただきたい。