佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

今朝はうな丼

本日の厨房男子。

冷蔵庫で冷え切っていた蒲焼きを使ったうな丼。

酒をふって電子レンジにいれると何とかふわふわになりました。

細かく叩いた朝倉山椒を振りかけると、鮮烈な風味が鰻に命を吹き込みました。

おとうふ工房いしかわの冷や奴も添えました。ヤマキの花かつををてんこ盛り。醤油はヒガシマルの「龍野の刻」。すべてが誠実につくられた逸品ばかり。

香の物が無いな。画竜点睛を欠くとはこのことか・・・

 

 

『清冽 詩人茨木のり子の肖像』(後藤正治・著/中公文庫)

『清冽 詩人茨木のり子の肖像』(後藤正治・著/中公文庫)を読みました。

 まずは出版社の紹介文を引きます。

「倚りかからず」に生きた、詩人・茨木のり子。日常的な言葉を使いながら、烈しさを内包する詩はどのように生まれたのか。親族や詩の仲間など、茨木を身近に知る人物を訪ね、その足跡を辿る。幼い日の母との別れ、戦時中の青春時代、結婚生活と夫の死、ひとりで迎えた最期まで―七十九年の生涯を静かに描く。

 

清冽  - 詩人茨木のり子の肖像 (中公文庫)

清冽 - 詩人茨木のり子の肖像 (中公文庫)

 

 

  茨木のり子さんのことをあまり知りませんでした。「わたしが一番きれいだったとき」を微かに知っていた程度のことである。その詩が世に出たのは1958年。私が生まれる一年前のこと。世代としては私より一世代前なので、あまり注目もしてこなかったのだ。

 あらためて本書で「わたしが一番きれいだったとき」を読んでみて、あぁ、これは教科書に採り上げられるべくして採り上げられたのだなあと妙に納得した。茨木氏が意図したことではないだろうが、いかにも反戦平和に凝り固まった教科書監修者が採り上げそうな詩である。けっして茨木氏の詩をくさしているわけではありません。茨木氏らしい強く真っ直ぐな心情が伝わってくる佳作だと思う。大人になろうとする少女にとっての戦争がどのようなものであったかが直截に表現されており、ひとたび読めば作者の心情が深く心に染み込んで忘れ得ないものになるのだ。良い詩だと思う。私がイヤなのは、この詩の持つある種の感傷を政治的プロパガンダに利用しようとすること。これは詩であって、イデオロギーや政治的スローガンとは峻別されなければならない。そのあたりをごちゃごちゃにすることはこの詩に対する冒涜であると感じる。左翼思想に凝り固まった偏狭な輩に道具として利用して欲しくないのだ。

 

  わたしが一番きれいだったとき

    わたしが一番きれいだったとき
    街々はがらがら崩れていって
    とんでもないところから
    青空なんかが見えたりした

    わたしが一番きれいだったとき
    まわりの人達がたくさん死んだ
    工場で 海で 名もない島で
    わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

    わたしが一番きれいだったとき
    だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
    男たちは挙手の礼しか知らなくて
    きれいな眼差しだけを残し皆発っていった

    わたしが一番きれいだったとき
    わたしの頭はからっぽで
    わたしの心はかたくなで
    手足ばかりが栗色に光った

    わたしが一番きれいだったとき
    わたしの国は戦争で負けた
    そんな馬鹿なことってあるものか
    ブラウスの腕をまくり
    卑屈な町をのし歩いた

    わたしが一番きれいだったとき
    ラジオからはジャズが溢れた
    禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
    わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

    わたしが一番きれいだったとき
    わたしはとてもふしあわせ
    わたしはとてもとんちんかん
    わたしはめっぽうさびしかった

    だから決めた できれば長生きすることに
    年とってから凄く美しい絵を描いた
    フランスのルオー爺さんのように
                  ね

 

 政治的あるいは思想的ととらえることのできる詩として「四海波静」がある。

四海波静
                 
戦争責任を問われて
その人は言った
  そういう言葉のアヤについて
  文学方面はあまり研究していないので
  お答えできかねます

思わず笑いが込みあげて
どす黒い笑い吐血のように
噴きあげては 止り また噴きあげる

三歳の童子だって笑い出すだろう
文学研究果さねば あばばばばとも言えないとしたら
四つの島
笑(えら)ぎに笑(えら)ぎて どよもすか
三十年に一つのとてつもないブラック・ユーモア

ざらしのどくろさえ
カタカタカタと笑ったのに
笑殺どころか
頼朝級の野次ひとつ飛ばず
どこへ行ったか散じたか落首狂歌のスピリット
四海波静かにて
黙々の薄気味わるい群衆と
後白河以来の帝王学
無音のままに貼りついて
ことしも耳すます除夜の鐘

 

  これなど昭和天皇の戦争責任を糾弾する意図を持って書かれたものかもしれない。昭和天皇ホワイトハウスでの「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言に対する記者の「戦争責任を感じているという意味に解して良いか」との質問に「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」と天皇陛下がお答えになったという朝日新聞の報道にふれた茨木氏が激情をもって直截な憤りを表現したものだ。同時になまぬるいジャーナリズムや天皇に責任を押しつけて被害者の位置に身を置こうとする民衆に対するいらだちも表現しているとも思える。この詩をどうとらえるべきか。タブーとされる領域にあえて踏み込んだ勇気をたたえるべきかもしれない。しかし私はそんな気にはとてもなれない。表現者はピュアで正直であってよいのかもしれない。しかし表現者は人にある種の影響を与えることを意図している以上、ただ単に思ったこと感じたことをまき散らせば良いというものではないだろう。現に詩人は語った言葉がどのように人に伝わるかを計算しつくして言葉を選んでいるはずだ。私が本書を読んで知った茨木氏のお人柄からして、このような詩を世に出されたことが到底理解できない。

 昭和天皇はその立場からして自分の思ったことをそのまましゃべれる状態にない。ひと言でも本心をさらけ出してしまったら、必ずまわりを巻き込んでしまい大事になってしまう。そのひと言がまわりを煩わせ、へたをすればそれがために人生が変わってしまう人を生んでしまう怖れすらあるのだ。天皇家という家系に生まれ、好むと好まざるとにかかわらず必然的に天皇の地位に就いた人の苦しみは常人には計り知れない。何気ないひと言が周りの者の忖度を生んでしまい、周りを煩わせてしまう。自分以外に同じような立場の人間はいない。そのような存在でありながら、戦争責任を認める認めないといった国を二分しかねないような発言ができるわけがないではないか。忸怩たる想いを秘めながらやむなく”三歳の童子だって笑い出す”ような答えしかできない苦しみを分かって差し上げられなかったのだろうか。天皇であるが故の寂寥感をわかって差し上げられなかったのだろうか。茨木氏は、本書を読む限り自身の寂寥や苦しみを決して人に頼らず、人を思いやり、人の手を煩わせることを嫌い、品性を持ってひとり背筋を伸ばして清冽に生きていらっしゃった方だ。そんな方がそのことに思い至らなかったとすれば残念なことだ。本書を読んで茨木氏の人格あるいは品性に惹かれるだけに、この詩は茨木氏の唯一の汚点と思える。

 さて、茨木のり子さんについて少々ネガティブなことから書いてしまったが、先ほど書いたように本書で私は茨木のり子さんに魅せられている。茨木さんの詩は、吉本隆明さんをして「言葉で書いているのではなくて人格で書いている」と言わしめるほど、彼女の持つ品性がそれこそ”清冽に”現れている。そんな詩を以下に引いてみる。

 

 

 ―Y・Yに―

 

大人になるというのは
すれっからしになることだと
思い込んでいた少女の頃
立居振舞の美しい
発音の正確な
素敵な女のひとと会いました
そのひとは私の背のびを見すかしたように
なにげない話に言いました

初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始るのね 墜ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなかった人を何人も見ました

 

(抜萃)

 

 自分の感受性くらい

 

    ぱさぱさに乾いてゆく心を
    ひとのせいにはするな
    みずから水やりを怠っておいて

    気難しくなってきたのを
    友人のせいにはするな
    しなやかさを失ったのはどちらなのか

    苛立つのを
    近親のせいにはするな
    なにもかも下手だったのはわたくし

    初心消えかかるのを
    暮らしのせいにはするな
    そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

    駄目なことの一切を
    時代のせいにはするな
    わずかに光る尊厳の放棄

    自分の感受性くらい
    自分で守れ
    ばかものよ

 

  倚りかからず

    もはや
    できあいの思想には倚りかかりたくない 
    もはや
    できあいの宗教には倚りかかりたくない
    もはや
    できあいの学問には倚りかかりたくない
    もはや
    いかなる権威にも倚りかかりたくない
    ながく生きて
    心底学んだのはそれぐらい
    じぶんの耳目
    じぶんの二本足のみで立っていて
    なに不都合のことやある

    倚りかかるとすれば
    それは
    椅子の背もたれだけ

 

 本書を読み、「ーY.Yに-」に書かれたように”墜ちてゆく”ことを自らに決して許すことなく、凜として立ち、清冽に生きようとした茨木さんを知ることとなった。そして茨木さんの品性に強く惹かれた。「自分の感受性くらい」「倚りかからず」を折にふれて読み返していこう。そんな気分である。

翠露 純米吟醸 山田錦

本日の一献は「翠露 純米吟醸 山田錦」でございます。長野県は上諏訪の酒です。

アテはセロリと人参とキュウリのピクルス、ヤマサ蒲鉾の天ぷら、唐辛子の醤油炒め。

翠露 純米大吟醸 雄町」も冷蔵庫に入っているが、飲み比べてみると山田錦と雄町の違いが際立ってよく分かります。山田錦の方がやわらかくスッキリしており、雄町は大吟醸であってもしっかり味がのっています。どのみち美味しいのですがね。

 

クレール日笠の朝食

酒を飲んだ翌朝は朝ごはんが楽しみだ。身体が味噌汁を求めている。炊きたてご飯も食べたい。「朝は食欲がない」などというのは本当の酒飲みではない。というのも、居酒屋ではたいてい酒と肴で済ませご飯を食べていないのだから。さらに酒を飲むと朝の目覚めが早い。早く起きて朝風呂を浴び新聞に目をとおしていると、その間にモーレツに腹が減ってくるのだ。

さて今朝はクレール日笠でいただく朝食です。正直なところホテルの朝食など大したことは無いと高を括っていました。しかし一口食べた瞬間、私はなんと浅はかであったかと猛省しました。原オーナー、私は今、海より深く反省しております。今後は原さんを山より高く尊敬いたします。

まず杉わっぱにふんわり盛られたご飯のうまいこと。炊き加減、固さ、香り、申し分ございません。若布の味噌汁は見た目は普通ですが、口に含んだ瞬間、いりこの香りが鼻腔をくすぐります。昔、おばあちゃんが作ってくれた味噌汁を思い出しました。出汁の取り方もバッチリです。味噌も糀の香りのただよう本物。だし巻き卵はふんわりジューシー、卵もおそらく良いものを使っていらっしゃるのでしょう。魚は鰆の味噌漬け、私の大好物です。籠に小鉢で盛られたその他の惣菜はまさに日本のスタンダード。たくあん、梅干しにいたるまで完食しました。ご飯と味噌汁を遠慮無くおかわりしましたよ。

けっして豪華ではないけれど、本物の贅沢を感じました。

ありがとうございました。

ホテルクレール日笠 Room No.703

昨夜は市内探索。

「主水」で呑んだ後、ホテルクレール日笠に泊まりました。

このホテルが他に類を見ない部屋を持っているとの情報を得たので、これは姫路市民として行かねばならぬ、事の真偽を見定めねばならぬと考えたのです。それにこのホテルのオーナーとは以前から顔見知り、facebook友だちでもあるのです。知り合いが凄いことをしている(?)のにそれを知らないのは友だちがいが無いではないか。それでは君子の道から外れるのではないか。すぐにも行かねばならぬ。確かめねばならぬ。今すぐ行こう。と、まあそういうことです。

まず感心したのはキーホルダー。革製です。こういうところに普通でないセンスを感じます。

部屋に入るとベッドルームの他に広々としたパウダールーム。トイレとカプセルタイプのシャワーブースがある。シャワーブースを開けるとシャワーだけでなくミストサウナが付いている。熱いミストが身体にあたるとなんとも心地よいのだ。背中、胸、腹を熱いミストがくすぐると思わず「あ~~」と声を漏らしてしまったではないか。なるほど普通ではない。かなり攻めの姿勢を感じるとともにオーナーの常識を少々疑ってしまった。

さらにこの部屋にはシャワールームはあるがバスタブがない。それじゃあ不便かというとさにあらず。部屋を出てすぐの所に共同の大きな浴場があるのだ。部屋のすぐ横なので、誰もいない時間を狙って入ると貸切風呂みたく大きな風呂を独り占めできるのだ。贅沢ではないか。

朝、目覚めてすぐに展望浴室に入った。一番風呂、しかも貸切状態である。お城はビルに隠れて見えないものの、姫路の飲み屋街の朝を眺めながら湯に浸る贅沢。すっかり魅了されてしまった。これからは呑んで遅くなったとき、タクシーを呼ばずここに泊まることにしよう。

 

ちなみにこの部屋の情報を得たのは以下二冊の本によります。

紹介しておきます。

 

日本百名宿 (光文社新書)

日本百名宿 (光文社新書)

 

 

 

日本ゴクラク湯八十八宿 (だいわ文庫)

日本ゴクラク湯八十八宿 (だいわ文庫)