佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『天ぷらにソースをかけますか? ニッポン食文化の境界線』(野瀬泰申:著/新潮文庫)

『天ぷらにソースをかけますか? ニッポン食文化の境界線』(野瀬泰申:著/新潮文庫)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

あなたは天ぷらにソースをかけますか? 赤飯に甘納豆を入れますか? 「天かす」と呼びますか、「揚げ玉」ですか? お肉と言えばなんの肉ですか?――ネットで集めた厖大な情報分析は、驚きと発見の連続。実際に歩いて実証した東海道食文化の境界リポート付き。ちなみに和歌山県では80%以上がソース派、東京は10人に1人です。ニッポンは意外と広い! 『全日本「食の方言」地図』改題。

 

 

 私はこの本をチャリンコで東北に向かう旅に携行して読んだ。3月の下旬から4月の上旬にかけてのことである。そしてその旅の途中に新潟の糸魚川を通り過ぎた。糸魚川は日本の食文化の地域性を見るのに重要な地点である。日本の食文化はおおまかに東日本型と西日本型に別けられ、その境界線といわれているのが糸魚川―静岡構造線(フォッサマグナの西端)なのだそうである。そんなことがあってこの旅に本書を携行し、本書を読みながら兵庫県京都府福井県→石川県→富山県新潟県山形県秋田県と自転車で移動した。ひょっとして食文化の境界線を境に衝撃的な発見があるかもしれない、なんてことを考えていたのだ。結果、どうだったかというと、一晩ずつ泊まって通り過ぎたぐらいで食文化の奥深さまではわからない。しかし福井県ではカツ丼といえば卵とじの丼ではなく、まず「ソースカツ丼」が思い浮かぶらしいこと。山形県では「麦切り」という関西のうどんとは趣の違った麺を食べること等々、それぞれの土地ならではの食べものがあることがわかった。ただ同時にその土地のことを知りたければ、少なくとも3~4日はそこにとどまって、うろつき、話し、食べなければわからないということもわかった。例えば今回、山形鶴岡に二泊したのだが、藤沢周平記念館に行き、居酒屋を二軒訪ねただけだった。四泊すれば赤川を遡り月山の麓までサイクリングを楽しめただろうし、酒蔵を三~四軒は訪ねることもできただろう。一日は月山に登っても良い。月山を下りてから居酒屋で山菜料理を肴に地酒をやるといった贅沢もできるだろう。これからはそういう旅がしたい。

 本題の「天ぷらにソースをかけますか?」問題については、かける派が多いのは和歌山がトップ、あとは沖縄、高知、福井、鳥取、鹿児島、愛媛、奈良、徳島と続くようだ。なるほど福井は「ソースカツ丼」がソウルフードだというだけあってソース文化の色濃い県なのだ。以外なのはこの中に大阪が入っていないこと。大阪は52%とソースをかける派がやや多い程度らしい。古くから栄えた大都市だけに様々なルーツを持つ人が混じっているのだろう。私に関していうと「かける」である。本書によると私の住む兵庫県はかける派が50%とかける派とかけない派が拮抗しているらしい。私が子どものころ、家で天ぷらを揚げるといえば玉ねぎやさつまいも、ネギなど野菜が多かった。鰯やイカの天ぷらは食べた気がするが、鯛やキスなど白身の天ぷらなど食べた記憶がない。山間部住まいだからだろう。そうした天ぷらを食べるとき、ウスターソースをかけていた。祖父や祖母は醤油をかけていたかもしれないが記憶が定かでない。天つゆや塩で食べるようになったのは大学生になって神戸に住むようになってからだ。今でも野菜のかき揚げやイカ天など、天つゆよりウスターソースのほうがおいしいと感じる。鰯天は絶対にウスターソースで食べたい。下品な食べ方と蔑む向きもあろうが、それが私の食の原点なのだから仕方なかろう。

 

 

『人はなぜ恋に破れて北へいくのか ナマコのからえばり』(椎名誠:著/集英社文庫)

2024/04/23

『人はなぜ恋に破れて北へいくのか ナマコのからえばり』(椎名誠:著/集英社文庫)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

目が覚めれば待ったなしのシメキリ地獄。腹が減ったらただちにメシ。妻がいなけりゃ楽しく自炊。ときにスバヤク食えるお取り寄せ商品に浮気する。家では「じいじい保育園」の園長だけど、色黒大柄天然パーマがたたって夜の公園で職務質問受けたりする。もちろんビールは毎日飲んでるけんね。まだまだ若いシーナの日常。あっちこっちをケトばしながら回遊するナマコのぶらぶらエッセイ第4弾。

 

 

 この本を持って私は先日旅に出た。3月の下旬から4月の初めにかけてのチャリンコ旅、東北への旅である。旅先でのちょっとした時間に読むための本を何にしようかと未読本の本棚を眺めて抜き出したのがこれだった。「北へいく」という言葉が目にとまったのだ。

 どうでも良いことかもしれないが、私はこれまで「恋に破れる」の”破れる”はずっと”敗れる”だと思って生きてきた。だから本書を手に取ったとき、微かな違和感を感じていた。それは本当に微かな違和感だったので、その時はその違和感をスルーしたのだったが、旅をする中でふとその違和感の正体に思い至ったのである。「人はなぜ恋に破れて北へいくのか」の”破れて”は”敗れて”の誤植ではないのかと。自転車に乗っていると実にいろいろな考え事をする。もちろんどの道を行くかを考えたり、危険を察知したり、はたまた美しい景色に心を奪われたりとめまぐるしく自転車で移動するという行為自体に集中している時もあるのだが、ふと頭の中でまったく別のことを考えている時間というのもけっこうあるものなのだ。自転車をこぎながら辞書を引くわけにいかないので、「”破れて”か”敗れて”どちらか問題」はとりあえず保留しておき、宿に着いてからスマホで辞書を引いた。

【破れる】 物が壊れる。物事に失敗する。
「服が破れる」「障子が破れる」「縁談が破れる」「社会の秩序が破れる」「国破れて山河在り」「夢が破れる」「この記録を破れる選手」「破れかぶれ」

【敗れる】 戦いや試合などに負ける。
「初戦で敗れる」「ライバルに敗れる」「人生に敗れる」

 辞書を引くとやはり「破れる」が正しいようだ。「縁談が破れる」などまさに「恋に破れる」に近い表現。なるほど「破談」といった言葉もある。私が間違っていたようだ。「敗れる」のほうも「人生に敗れる」といった表現があるので「恋に敗れる」もワンチャンあるかも・・・・と思ったが、ここは潔く自分が間違っていたと認めたほうがよさそうだ。「敗れる」は戦いや試合に負けることなのだなと納得した。ん? ここで私は恋は「敗れる」ものなのだと思い込んでいた理由にはたと思い当たった。「恋の戦争にやぶれた~乙女は悲しくて~あなたと別れて~~北国へ、北国へ、北国へ向かうの~~♬」というチェリッシュのヒット曲『だからわたしは北国へ』のメロディーが頭の中に流れたのだった。私が中学生になったばかりのころのヒット曲だっただろうか、今でもメロディーと歌詞を鮮明に覚えている。私の中で恋のイメージは思い人を恋敵と争うこと、つまり恋の戦争なのである。この曲の歌詞にある「恋の戦争にやぶれた」は「破れた」ではなく、きっと「敗れた」に違いない。なにせ戦争なのだからこれはもう疑いようもなく「敗れた(敗戦)」だろう。戦争に”破”を使うならば「撃ち破る(撃破)」であり、負けた方でなく勝った方の表現でなければならない道理。どうしても負けた側が”破”を使いたければ「破られた」とならざるを得ない。と、どうあっても「敗れた」が正しいと言いたい私は歌詞をググってみた。するとどうだ、『だからわたしは北国へ』の歌詞も「恋の戦争に破れた」となっているではないか。作詞家・林春生先生に裏切られた思いである。悲しいことだが、ここに至って私は敗北を認めた。どうやら恋は敗れるものではなく、破れるものらしい。私の五〇年にもわたる思い込みはここに敢え無く敗れ去ったのである。

【『だからわたしは北国へ』歌詞引用】

    

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 どうでも良いことをつらつらと書いてしまった。ではいよいよ本書の題『人はなぜ恋に破れて北へいくのか』問題について考えてみる。まず言っておくが、本書にその答えはない。「むかしから男も女も辛くなるとみんな北の方へニゲル。さすらいの旅に出る、というふうにキマっていた」というシーナさんの言及があったのみである。そしてその例として歌謡曲津軽海峡・冬景色』『風雪ながれ旅』『哀しみ本線日本海』『北の旅人』『北帰行』などを揚げている。先ほど私が示した『だからわたしは北国へ』もその例のひとつである。確かに失恋傷心旅には北国が似合う気がする。北国の持つ「寒い」とか「さみしい」、あるいは「鄙びた侘び」のイメージが失恋にしっくりくるからだろう。これが南国であったり南の島では、なんだか「暑い」「明るい」「活動的」といったイメージがついてまわる。なんだか新たな出合いを求める旅の趣を帯びて、未練や恨みといった心情とはほど遠い。やはり恋に破れたら北国へ行くべきだ。それが我が大和民族のメンタリティーであって、法律化こそされていないがゆめゆめおろそかにしてはならぬ不文律である。それが守れず失恋傷心ツアーなどと称して南の島に出かけ、男漁り(あるいは女漁り)をするような輩は豆腐のカドに頭をぶつけて死ねば良いのだ。

 またまたどうでも良いことを書いてしまった。本書についてもう少し書こう。本書は週刊誌『サンデー毎日』の2010年1月31日号から11月14日号までに掲載されたエッセイである。その後も連載は続き、椎名氏のHP「旅する文学館」を覗いてみると、「"ナマコ”シリーズ」のエッセイ集は2015年3月15日に『単細胞にも意地がある ナマコのからえばり10』が毎日新聞社から上梓されたようだ。その後も連載が続いているかどうかはわからない。私は『サンデー毎日』を読んだことがない。触ったこともない。「毎日」「朝日」という言葉からできるだけ離れていたい体質なのだから仕方がない。「"ナマコ”シリーズ」は休止しているかもしれないが、最近刊行されたものはと言えば『サヨナラどーだ!の雑魚釣り隊』という本が2023年10月4日に小学館から出ている。ご健勝で何より、ファンとしてうれしいかぎりである。シーナさんは今年御年80歳を迎えられるはず。いつまでもお元気であっちこっちをケトばしながら旅していただきたい。そして書きまくっていただきたい。大学3年生の時にシーナさんのエッセイ集『かつをぶしの時代なのだ』( 情報センター出版局)を読んで以来、たいていのご著書を読んできたが、まだ読んでいないものが何冊かあるようだ。これからも読んでいきたい。

「豆ごはん」「大根、えび、イカ煮」「トマトとアスパラのオープンオムレツ」

2024/04/21

 本日の厨房男子。

 夕餉に「豆ごはん」を炊いた。春が来たらやっぱり一回はやらんといけません。「筍ごはん」とともに春の味です。

 酒は「越の誉 純米大吟醸 無濾過生原酒」。酒の肴は「大根、えび、イカ煮」「トマトとアスパラのオープンオムレツ」。うまい。

 

『りょうり屋 雪もと』で飲む

2024/04/18

『りょうり屋 雪もと』で飲んだ。気の置けない友人との飲み会である。いつもお世話になっている自転車屋『サイクルショップ・テラオ』の隣りにあって、店主が薦めてくれたこともあり前から気になっていた店である。

 店主お任せのコース。季節のものを使って趣向を凝らした肴がつぎつぎ供される。

 おいしゅうございました。

 

 

筍ごはん、蕨のあっさり煮、若布の佃煮

2024/04/14

 本日の厨房男子。

 朝餉に「筍ごはん」を炊いた。昨日、ご近所のT1さんから筍と蕨を、T2さんから若布をいただいた。今朝はそれを使ったご馳走となった。おかずに「蕨のあっさり煮」、「若布の佃煮(二種)」。春の味。体がよろこんでいる気がする。