佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

村上春樹氏の「壁」と「卵」

昨夜のニュースで村上春樹氏が「エルサレム賞」授賞式で行った記念講演が伝えられた。テレビや新聞では講演の一番象徴的な一部のみを紹介しているので、村上氏の発言を正確なニュアンスで伝えているとは言い難い。そのあたりが知りたくてネット上を探すと、あるブロガーが『エルサレムポストFeb 15, 2009 23:57』と『AP通信伝』それぞれの配信を折衷して詳しく掲載されていたので、それを引きます。


http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/

 そう、僕はイスラエルにやってきました。小説家として……「嘘」を紡ぐ者として僕はここに来ました。 

「嘘」をつくのは小説家だけではありません。政治家も(大統領閣下、すいません)、外交官もまた、嘘をつきます。

 けれど、小説家と彼ら(政治家や外交官)のつく「嘘」にはいくつかの違いがあります。

 僕たち小説家は嘘をついても訴えられることはないし、その嘘がより大きければ、多くの賞賛を得ることができます。

 そしてまた、彼らと僕たちの「嘘」の違いは、僕たち(小説家)の嘘が、時に真実を照らし出す一助になることにもあります。真実をつかみ取ることは非常に困難なことです。ですから僕たちは、その真実を「フィクション」の世界に作り替えるのです。

 本日、僕は「真実」を話すつもりです。僕は1年のうち数日だけ、嘘をつかない(小説を書かない)日があり、今日はそのうちの1日なのです。

 今回のエルサレム賞受賞について打診された時、僕は、その賞を受け取るべきではないと、多くの警告を受けました。なぜならガザは紛争の最中にあったからです。「いまイスラエルに行くことは適切なのだろうか?」、「僕はどちらか片方に肩入れするのだろうか?」「その賞を受け取ることは、圧倒的な軍事力を行使する政策を是認したことにならないか」と自問しました。

 もちろん、こうした印象を受けることによって、僕の本がボイコットされることはあり得ません。しかしながら、最終的に僕はそれらを考慮し、その上で、ここに来ることに決めました。来ることを決心した理由のひとつは、非常に多くの人が僕に「行くべきではない」と言ってきたことです。多くの小説家がそうであるように、僕は僕が天の邪鬼であることを好んでいますし、それは僕の、小説家としての本質に関わることです。

 小説家は自分の目で見たこと、自分の手で触ったことしか信じることができません。ですから僕は、何も語らないでいるよりも、自分で見て、ここで語ることを選びました。

 そしていま、僕はここに来て語っています。

 僕は立ちすくんでいるよりも、ここに来ることを、目を反らすよりも見つめることを、沈黙よりも語ることを選びとりました。そのうえで、僕はひとつの、とても個人的なメッセージを届けるためにここに来ています。これは僕が「フィクション」をつづるさいにいつも心がけていることであり、紙切れに書きつけて壁に貼る、というわけではないけど、僕の心の「壁」には刻み込まれていることです。

 もしその「壁」が――その壁にぶつけられる「卵」が壊れてしまうほど――固く、高いものであるならば、どんなに「壁」が正しくとも、どれほど「卵」が間違えていたとしても、僕は卵のそばに立つでしょう。

 なぜか? 僕たちひとりひとりが、その「卵」だから、かけがえのない魂を内包した壊れやすい「卵」だからです。僕たちはいま、それぞれが「壁」に向かい合っています。その高い壁は、「システム」です。

 僕が小説を書くさい、たったひとつの目的しか持っていません。それは個々人のかけがえのない神性を引き出すことです。その個性を満足させるために、そして僕たちが「システム」に巻き込まれることを防ぐために。だからこそ僕は、人々に微笑みと涙を与えるべく、人生と愛の物語を書きつづります。

 僕たちはみな、人間であり、個人であり、壊れやすい卵です。

「壁」はあまりに高く、暗く、冷たすぎて、それに立ち向かう僕たちに、望みはありません。(だからこそ)「壁」と戦うために、僕たちの魂は、暖かさと強さを持つべくお互いに手を取り合わなくてはなりません。僕たちは僕たちの作った「システム」に操られてはいけません――そのように僕たちを形作ってはいけません。それはまさに、僕たちが作った「システム」なのですから。

 僕の本を読んでくれたイスラエルの人々に感謝します。

 僕たちはいくつかの意義を共有できると願っています。

(そんな「共有できる」)あなたたちこそが、僕がここにいる最大の理由なのです。



 これを読むに、村上氏は明らかにイスラエル政府によるガザ地区攻撃を非難しています。「壁」とは圧倒的な攻撃力優位を持つイスラエル軍であり、イスラエルが進めるパレスチナとの分離壁だと思われる。それに対し「卵」とは「壁」に立ち向かうパレスチナの人々だろう。新聞によっては「壁」の解釈を「イスラエル軍パレスチナ武装組織」ととらえ、「卵」の解釈を「パレスチナの人々であり、イスラエルの国民でもある」ととらえている。もちろん村上氏には一方的にイスラエルのみを非難しパレスチナの肩を持とうとする意図など無い。しかし、私にはどう読んでも「壁」が象徴するのは「イスラエル」であり、「卵」が象徴するのは「パレスチナの人々」と思える。力の上であまりにも対照的な両者をとらえ、たとえ「壁」が正しくとも、どれほど「卵」が間違っていようとも、作家として村上氏は「卵」の側からものを見ると言っているのです。「壁」=「システム」の側に立つ小説家になど意味がないと言っているのです。作家としてあえて「卵」=「人間」の側に立つと言っているのです。久しぶりに鳥肌の立つような講演に出会いました。

 二十歳になる前から村上氏の小説を読んできた者にとって、今日ほどそれを誇りに思ったことはありません。

 蛇足ながら、イスラエルの行っていることは許し難いとしても、「エルサレム賞」の選考は「ノーベル文学賞」や某国の文学賞の選考よりまともではないでしょうか。