佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

強育論--悩める大人たちに告ぐ! 「いじめの芽を摘む」特効薬

 『強育論』(野々村直道・著/講談社)を読みました。

 先月24日に講演会でのお話を拝聴したあと、同じテーブルでお酒を酌み交わしながら食事をさせていただきました。その時に御著書にサインも頂きました。私の読書は文庫本持ち歩きを基本としていますので、まとまった時間が空いている休日にしか単行本を読むことが出来ません。すぐにも読みたかったのですが今日になってしまいました。

 

 

 

 

 

 力は正義、体罰容認、平等は弱者の論理と野々村氏の主張は批判を恐れず真っ直ぐだ。それだけに世間からずいぶん「危険な人?」との誤解も多いだろう。(笑) 本書よりそうした記述をいくつか引いてみよう。

 


 戦後、いびつな平和平等主義が蔓延し、戦わない、競わない、順位を決めないということが「善」であるかのような教育が施されてきた。強いこと、力があることは「悪」であるかのように吹聴されてきた。
 競って勝つことは美しいことである。「美しさ」の根底には、必ず「厳しさ」がある。スポーツに限らず、芸術、文化活動においても然りである。他人よりも良いものを作り上げるために努力し、自らを磨き、進化していくのである。競わずして何が磨かれようか!
 勝利に向けてひたむきに精進するからこそ、人は進歩する。
 体罰や暴力にからめ、一心に勝利を目指す尊い心まで奪ってはならない。じつとしているだけで権利や自由が与えられ、進歩することに意欲を示さない「弱い」人間を作ってはならない。
 勝利至上主義には精神の高潔さが内包されている。物質至上主義より、はるかに気高く尊い心が「勝利」を求めるのである。
”力は正義である”
・・・・・・このことを世に訴えるために『強育論』と題してこの本を上梓した。

(本書「まえがき」より)


 競うことを避け、低いものに標準を合わせることを「平等」と錯誤してきた戦後教育のツケが回ってきている。競うことは戦争につながり、敵を作ることであると子供たちに吹聴しきた。"自由、平等、個性"の美名のもとに皆が一律に手をつないでゴールインすることが人間的な行為であると唱えてきた。これは「弱者の論理」に他ならない。しかし社会では、本来強い者が生き残るものだ。強い者こそが弱者を救えるのである。この強い者の施しが人間社会の道徳であり倫理なのだ。弱い者や貧しい人を助けるために強くなり豊かになるべきなのである。この訓練と経験を積むのが教育の場である。

(本書P19より)


 なぜ教師の体罰はよくて生徒同士で殴ってはいけないのか、それは責任の違いである。教師は責任を持っているが、生徒にはない。そうなると、生徒間では歯止めが利かずエスカレートする。最後にはいじめになってしまう。とにかくいじめだけはいけない。いじめられているほうは地獄の苦しみ。よく「加害者も被害者です」なんて口走る人権派のヤツがいるけど、とんでもない。いじめをやめさせるには、力でやめさせるしかない。

(本書P25より)


 底辺校と呼ばれる教育現場を想定してみよう。倫理も道徳もなく、刃物や凶器で教室を占拠し、教師に襲いかかる凶暴な生徒たち。授業を受ける気などサラサラないと、教室内を歩き回り、机や椅子をひっくり返し、妨害する子供たち。
 このような今後必ずや他人と社会に迷惑をかけるであろう生徒たちに論理のみの教育で、いかに情熱があろうと、正しき人間に導けると思っているのか?
 この子らを更生させるには、体を張って、命を懸けて、”クビ”を覚悟で対峙する瞬間が必要とされるのではないか?
 平和と安定が保障された地位や立場で、平然と理想論を語る文科省、マスコミ、知識人、高野連
 本当の現場の底辺が見えているのか?
 退廃的ポピュリズムにより、常に生徒側が善であるという思想。指導者側・体制側が常に悪であるというイデオロギー

(本書P222~P223より)



 野々村氏について見方が偏っていると見る向きが多いのかも知れないが、私はそれは全くの誤解であると言い切る。実際に酒を酌み交わしながらお話をさせていただいたが、礼節をわきまえられた紳士として私は氏を尊敬しました。実際の教育現場の現実をありのままに視て、それにどう対処するかを現場として素直に考えれば、答えは自ずと野々村氏の主張にかさなるはず。それを間違いだとする人こそ偏っているのである。現場(現実)を視ずに机上の空論をドグマとして展開する無責任な評論家はどこにでもいる。私に言わせればこの種の輩は、家に強盗が押し入り、財産を強奪され、今にも妻が犯されようとしている最中に「あなたの行為は間違っています。でもあなたも社会の被害者なのですね」などと説くような”たわけ”です。命に代えても家族を守るが正解でしょう。邪な考えと暴力を持って社会に害毒を流し、周りに迷惑をかける輩は掃いて捨てるほどいるのである。正しき者が強さを持たなければ、悪を正義の力で抑えつけなければならない局面はいまも目の前にある。力は悪の側では無く、正義の側になければならない。