ウェルズの日記

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『リアル(写実)のゆくえ_髙橋由一、岸田劉生、そして現代につなぐもの』(土方明司・江尻潔:企画・監修/生活の友社)

『リアル(写実)のゆくえ_髙橋由一、岸田劉生、そして現代につなぐもの』(土方明司・江尻潔:企画・監修/生活の友社)を読みました。

 昨日から姫路市立美術館で開催された『リアル(写実)のゆくえ』展の公式図録で美術館から頂いたものです。

「リアル(写実)のゆくえ」展の公式図録兼図書。
近年、ブームといえる写実絵画。果たして日本ではいつの頃から描かれてきたのか。またフェルメールレンブラントといった西洋の写実絵画とは異なる日本独自の写実絵画はあるのか?「迫真に、物狂いに」描き続ける明治の高橋由一からはじまり大正の岸田劉生や、昭和の長谷川潾二郎、そして現代の作家たちの100点を超す作品をカラーで掲載し、本当の写実絵画とは何かを探ります。画家達が語る写実絵画についての言葉も必見。美術ファンから絵を描く作家まで、幅広く楽しんで頂ける内容です。
【展覧会スケジュール】平塚市美術館2017年4月15日〜6月11日/足利市立美術館2017年6月17日〜7月30日/碧南市藤井達吉現代美術館2017年8月8日〜9月18日/姫路市立美術館2017年9月23日〜11月5日

出版社からのコメント

「鮭」の絵でしられる日本洋画の先覚者、高橋由一。彼は江戸時代より徐々に将来された西洋画の迫真の写実表現に感動し、洋画家を目指しました。以来、実に多くの画家たちがこの西洋由来の写実技法を学び、さまざまな作品が生まれます。その一方で早くも明治中期には、黒田清輝が外光派風の作品を発表し、その親しみやすさから写実絵画は穏健な叙情性を重んじることとなり、これが日本の官展アカデミズムの主流となります。以後、近代以降の日本の美術史は、外光派風写実と、それに反発する印象派以後の美術(モダニズム)の流れで語られています。由一が衝撃を受けたリアリズム、迫真の写実は、大正期の岸田劉生などの諸作に引き継がれるものの、美術史の表舞台からは後退した感が拭えません。劉生以外にも、写実の迫真性に取り組んだ画家たちも少なからずいましたが、その多くは異端の画家として評価され現在に至っています。
近年、細密描写による写実が注目を集めています。また、磯江毅のように高橋由一をオマージュする作品を描く現代画家たちも目立ちます。そこで本展は、移入されてから百五十年を経た写実表現がどのように変化し、また変化しなかったのか、日本独自の写実が生まれたのか否か、を作品により検証します。明治から現代までの写実絵画を展観することで、写実のゆくえを追うものです。 

 

リアル(写実)のゆくえ〜高橋由一、岸田劉生、そして現代につなぐもの

リアル(写実)のゆくえ〜高橋由一、岸田劉生、そして現代につなぐもの

 

 

  たいへん興味深い企画展です。企画展のテーマ”(日本に)移入されてから百五十年を経た写実表現がどのように変化し、また変化しなかったのか、日本独自の写実が生まれたのか否か、を作品により検証します”が興味をそそる。しかし同時にはたと疑問が湧き起こる。”写実表現がどのように変化し、また変化しなかったのかを作品により検証します”というが、いったい何を基準として変化したしなかったを判定しようとするのか。そもそも「写実」をどのようにとらえるかは画家それぞれ、各人各様である。身も蓋もない言い方になってしまうが、画家が変われば「写実」の意味も違うのだ。しかし、優れた作品が後世の画家に影響を与えるかたちで「写実」は受け継がれたに違いない。現にこの企画展を象徴する髙橋由一の「鮭」と磯江毅の「鮭ー髙橋由一へのオマージュ」にそのことが明確に現れている。本企画展はその系譜を明らかにするとともに、新しく生まれた独自のものを浮き彫りにしようとしたといって良いのであろう。

 では、写実に心を囚われたかのようなものぐるひたちの言葉をいくつか引用して、彼らが写実をどうとらえたのかをひもといてみる。

 

では優れた作品と言えるのはどのようなものなのか。事物の形や勢いを写し取る技量が十分にあり、画家自身の精神をあわせて表現しており、元となる自然物と絵を比較した場合、絵の方が自然物を超越して美しく、見る者の心と目を感動させるものに至って初めて神技の域に達した作品であると言えるのだ。

       【髙橋由一「当今日本絵画事情」1892年】

         

精神を写すこと、形を写すこと、ともに完全であるものは、美術の理を尽くしており、形を写すことに乏しくても精神性に富んでいるものは、これに次ぐ。

     【髙橋由一「洋画家の大同団結を呼びかける檄文」1887年頃】

 

※現代文に置き換えています。

 

装飾のない写実は、本当らしく描くといふ事に止まる。決して「本当」は描いていない。

その人が美しいと思ったのは、きれいの程度か、或は概念的な程度に止まる。

形に宿る形以上の領域、それが形に宿ってゐる感じ、

これを形の上に見出すのが、「美」を見る事である。其処には装飾がある。

これが内なる美化である。

その表現が写実である。

ここに於て、写実といふ語は生きる。

「実」とは、真実の意味となり、美術に於ては即ち美の意味となる。

・・・・・・・・

もし、写実的な美を生かす事が、

唯心的な域を殺す事になる様な場合に遇ったら、

唯心的な域の方を生かし、

写実的な追求は犠牲にしなくてはならない。

                【岸田劉生「写実論」1920年】 

 

全宇宙を一握する、是れ寫実

 全宇宙を一口に飲む、是寫実  

 

花一つを、

砂一粒を人間と同物に見る事、

神と見る事

 

色の名称をすててしまふ、

色といふ言葉もすててしまふ、

写実はそれからだ

                【髙島野十郎(遺稿ノート)】

 

日本人にとって日本語が母国語であるように、

私にとって写実は対象物の再現であって私自身の表現方法であるのです。

しかし、西洋美術のもっともプリミティブな形で、

根本でもある写実表現は絶対的に信頼できるものでありながら、

それを自分の問題として進化させてゆくことができない限り

「本当の写実絵画=普遍性を持った絵画」とは言えません。

   【磯江毅(広島市立大学芸術学部教授就任後の分署より)2005年】

 

写実を極めることは、

写実でなくなってしまうことと考えています。

 【磯江毅(現代写実絵画研究所同人及び関係者への手紙より)2006年】

 

いい絵は、宇宙人が描いたように見える。

暴力的に素直なまなざし。

まるで宇宙人が見ているような、宇宙人が描いたような画。

 

リアルだ写実だとことばは踊る。が、ことばとはなんと不確かなものだろう。わたしは自分の絵が、いわゆる写実なのかどうかわからない。写実、と表面上のリアリズムのみを指して読んだりすれば、すぐに問題を見誤ってしまう。あらゆる領域の表現同様、モチーフや手法や材料だとかは大事な事を何も決定しない。問題はそれがホンモノかどうかでしかなく、すべてばらばらに一個の作品として、大きな芸術の渦に呑み込まれ、裁かれていくほかはない。

 

その地その時々に発生してきた芸術たち、そのものこそがリアリズムであり、写実ーー実を写すとも言える。大きな真実のための無数の小さな嘘、とボナールは言った。芸術ってそういうものだと思う。そんなふうにしてこの世のふしぎをうつしてくる。

 

・・・・・・

 

そして、わたしもかならず描く。

そんな、宇宙人が描いたような絵を。

 

                 【安藤正子「宇宙人の絵」】

 

  いずれも執念を感じさせる言葉ばかり。絵を描くことに、写実に心を囚われたものぐるひたち、彼らや、彼らの後継は大きな芸術の渦の中でどう裁かれていくのか。これからも宇宙人が描いたような絵は生まれ続ける。それこそがリアルのゆくえなのかもしれない。