佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『ライカと歩く京都』(小山薫堂、アレックス・ムートン:著/PHP研究所・京都しあわせ俱楽部)

『ライカと歩く京都』(小山薫堂、アレックス・ムートン:著/PHP研究所・京都しあわせ俱楽部)を読みました。

 まずは出版社の紹介文を引きます。

京都好きが高じて、京都に住まいまで持ち、下鴨茶寮の主人になり、京都館の館長にまでなった小山薫堂さんと、謎の写真家アレックス・ムートンによる京都写真紀行です。
著名な観光地よりも、その合間に、京都の本当の魅力がある、と言う著者は、カメラを持って歩くことを読者にすすめます。
千年の都で息づく人々の暮らし、人と人とのつながり、そして変わらぬ風景と移ろいゆくもの…、それらにしっかりカメラを向けると、普段着の京都が見えてきます。
通り過ぎようと思っても吸い寄せられてしまう不思議な引力を持つ京都は、カメラを持って歩くほどその魅力と楽しさは倍になるのです。
本書はそんな著者が切りとった京都のまちや人を写真で紹介しながら、著者独特の京都の歩き方や愉しみ方を伝えます。
京都を旅する前に、その旅の最中に、旅の後に、必読の一冊です。

 

ライカと歩く京都 (京都しあわせ倶楽部)

ライカと歩く京都 (京都しあわせ倶楽部)

 

 

「弘法さん」「天神さん」と祭りを大切にする街。出世払いと学生を大切にする街。旧さと新しさが混在し融合する街。カメラを持ってぶらりと街歩きをすると切り取りたい風景がそこかしこにある。路地を歩く。気まぐれにバスに乗り、気の向いたところで降りる。何処にも京都らしさがある。旧いものも新しいものも不思議と京都らしい。そこに住む人も、観光に来た人も、みんな含めて京都だ。ぬるい銭湯、コシの抜けたうどん、意外と多い洋食屋と中華料理店、観光地の喧噪と路地の静寂、どんな京都もいとおしい。

 

「鰻 これ くふうて やく のむな」 八重洲はし本

東京での夕餉はかねてより食べたいと思っていた「八重洲はし本」の鰻。

鰻が焼けるまで40分待ち。この待ち時間がうれしい。

「九条葱のぬた」「肝焼き」「ひれ焼き(肝いり)」をアテに酒をやる。

酒は「王祿 溪 純米吟醸 無濾過本生」(島根、王祿酒造)を冷やで。

続いて「綾香 特別純米 ひやおろし」(福岡、旭菊酒造)をぬる燗で。

読む本は『ライカと歩く京都』(小山薫堂、アレックス・ムートン)。

 

ゆいリビングス(YUI Livings)

 旅と暮らしをテーマにした二つの空間「ゆいリビングス(YUI Livings)」が本日オープンしました。

 場所は神戸元町本通り商店街です。

www.yui-tabitokurashito.jp

 

 

 水戸岡鋭治氏のデザインによるバス「YUI PRIMA」を使った本物を感じる旅を神戸、姫路だけでなく、大阪でも提供してまいります。旅好きな方にお立ち寄りいただいて、ツアーデスクでお茶を飲みながら「こんな旅行作ってくれへん?」といったおしゃべりをしていただければと思います。

DRAPH展

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 本日から銀座のクリエイションギャラリー G8にて開催された「GRAPH展」に行きました。
 以下はGRAPHからのメールの抜萃です。
本展では、GRAPH創世記から現在に至るまでのあらゆる制作物を通して、北川一成/ GRAPH の仕事の秘密に迫ります。
『解剖する』という視点で構成された展示は、「北川一成が滞在制作するデザインの現場」から、「創造の源泉が収められた書棚の複製」、「展示物がそのまま買えるデザインマルシェ」、「デザインと印刷の過程を公開する実験披露」、またなぜか「お祭りの屋台」まで、バラエティに富んだ内容となっています。
日々生まれるコミュニケーションの最前線から、日本のデザインとものづくりの未来が垣間見える展覧会です。
 
(記)<GRAPH展>
• 会期:2017年10月24日(火) - 11月22日(水)
• 時間:11:00a.m.-7:00p.m. 日曜・祝日休館 入場無料
• 会場:クリエイションギャラリー G8 (http://rcc.recruit.co.jp/g8/
〒104-8001
東京都中央区銀座8-4-17 リクルートGINZA8ビル1F

 写真のように北川さんの手でプリントしたTシャツとトートバッグをお土産に買いました。

 北川さんの頭の中を少し覗いてみた。

【共通点その1】

【共通点その2】

【共通点その3】

【共通点その4】

 北川さんがこれまで読んでこられた本が並べてある。私は相当本を読む方だが共読本は少なかった。4冊でした。どれだかわかりますか?

 

 

『地獄変』(芥川龍之介・著/ハルキ文庫)

地獄変』(芥川龍之介・著/ハルキ文庫)を読みました。

 まずは出版社の紹介文を引きます。

地獄変の屏風絵を完成させるために、娘を見殺しにする天才絵師・良秀に、芥川自身の芸術至上主義を重ねて語られることの多い表題作「地獄変」をはじめ、藪の中で発見された男の死体について複数の人物の独白という形式で語られる、ミステリー要素の強い「藪の中」、腑甲斐ない女の魂を描く「六の宮の姫君」、夜空に消える一閃の花火に人生を象徴させた「舞踏会」の全四篇を収録。芥川作品の魅力にぐっとくる名作集。

 

地獄変 (ハルキ文庫 あ 19-2 280円文庫)

地獄変 (ハルキ文庫 あ 19-2 280円文庫)

 

 

 本書を読むきっかけになったのは『去年の冬、きみと別れ』(中村文則・著/幻冬舎文庫)を読んだからだ。作中、何度も芥川の『地獄変』が出てきたのだ。自分の創作欲のために実の娘が日に焼かれるのをも見殺しにする絵師の話。読んでみたいような、読みたくないような。でも読んでみたいってことで読みました。

 4つの短編が収められており、その中には北村薫さんのミステリの題材にもなった『六の宮の姫君』があるではないか。これも読まなくてはと思っていた小説でした。

 さていきなり余談になるが、最初の頁で「群盲の象を撫でるようなもの」という諺を発見。恥ずかしながらその意味を知らず調べてみた。

群盲象を評す(ぐんもうぞうをひょうす、群盲評象)は、数人の盲人が象の一部だけを触って感想を語り合う、というインド発祥の寓話。世界に広く広まっている。真実の多様性や誤謬に対する教訓となっているものが多い。盲人が象を語る、群盲象をなでる(群盲撫象)など、別の呼び名も多い。
その経緯ゆえに、『木を見て森を見ず』 と同様の意味で用いられることがある。 また、『物事や人物の一部、ないしは一面だけを理解して、すべて理解したと錯覚してしまう』 ことの、例えとしても用いられる。 

  おそらく体に障害を持つ人への差別的な表現と取られることを怖れて学校などで積極的に教えないのではないか。マスコミや出版業界でも検閲して自主規制しているという。寓話として優れているだけに、このような表現が世の中からどんどん削除されていくとすると寂しいことだ。そういえば最近は「ブラインドタッチ」と言う言葉を聞かなくなった。まさに「言葉狩り」状態です。まことにバカげたことです。

 本題の小説について、まず「地獄変」ですが、狂気ともいえるほど突き抜けた何かを持つものを芸術や美と呼ぶならば、これほどの耽美はあるまい。このような話は正気の人間からは生まれ得ない。小説としてスゴイが私は二度と読む気がしない。

 続いて「藪の中」。あることについて複数の人間から話を聴くとまったく違う情景を聴かされ、いったい誰の話が真実なのかわからないといった類いの話はよくある。この話はそうしたことを上手く表現したミステリとして秀逸。

「六の宮の姫君」については、人間誰しも生きるためには食べなければならないし、着るものだっている。この時代に女が経済的基盤を持つとすれば、男に通わせるしかない。そのための手練手管を磨くことがその時代に生きる女のすべきこと。仮にそんなことにまったく興味を持てない、ある意味無垢な童女のような女がいたとして、そのような女が辿る末路を描いた小説。芥川はこの女を批判的に書いたのか? 否、文章を読む限りそのような意図は感じられない。彼は無垢なままでは生きることが出来ない現世というものに絶望していたのではないか。もし芥川が現代に生きていたら、さらに絶望の度を増しただろう。なにしろ現代において「生命」は最も大切にされるべきものであり、徒やおろそかにすることなどけっしてできない。私などは生きることより矜持や名誉のほうがよほど大事だと思うのだが、私の見るところ、現代においてはまず「命」、次に「金」が大切であり、他のものをかなぐり捨ててでもその二つを追いかけている。まことに浅ましく見苦しいことだ。「六の宮の姫君」は悲話ではあるけれど、意に沿わぬかたちで男に遜ることをしない姫の姿にひとつの美のかたちを見出すことが出来る。

「舞踏会」については書く必要を感じない。