佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

銀のみち一条(下巻)

あれは六歳の時だった。山神さんの祭りの日。初めて雷太と会ったのだ。とても静かな少年だった。漢字をいくつも知っていた。おヨシの名前の文字も彼が決めてくれた。だが何より彼に惹かれたのは、そのやさしさだったと言って良よい。ソクイン、などと小難しいことを言ったが、強い者が弱い者を思いやりやさしくすること、という説明に、惻隠、の文字をつけて教えてくれた。そして芳野に、あんたはそれがある人や、と言ってくれた。
                                          (本書P12より)

 

 

『銀のみち一条』(玉岡かおる・著/新潮文庫)を読みました。

 

 

まずは裏表紙の紹介文を引きます。


生野にも押し寄せる、近代化の荒波。落盤事故やストライキを乗り越えて新しい鉱山が動き出す。女たちの運命もまた然り。エリート技師の夫とすれ違う咲耶子、家族を養うため町の有力者に身請けされた芳野、父の遺言で嫁入りが決まった志真。恋に泣き、夢破れてもなお続きゆく人生。苦しい過去を背負いながら、やがて再生の未来へとつながるそれぞれの銀の道とは―感涙必至の大長編。


 貧しさ故に、発展途上にあるが故に理想の世界は遠い。物事は人々がそうあって欲しいと思うとおりにならない。全員が救われ満たされるなどということは夢物語に過ぎず、現実には誰かが泣く。人々は泣いた者の犠牲の上にかろうじて生きてゆけるのだ。「どうすれば最大多数が泣かずにすむか」それが、この物語に登場する人物、雷太、芳野、志真の規範だ。「最大多数の幸福」ではなく「最大多数が泣かずにすむか」という表現が哀しくも厳しい。そこには人のために己を殺す、公のためには私が引き下がるという覚悟がある。明治の時代、チャンスが平等に与えられることなど無い。目標に向かって努力すれば願いは叶えられるなどと考えるのは世間知らずの戯言に過ぎない。目標に向かうどころか、今日生きるのが精一杯だからだ。そうした時代に人のために懸命に生き、あるいは己を捨てて他を生かそうとした高潔な心に胸を熱くした。このような感動を与えてくださった玉岡かおるさんに心から感謝したい。