佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

木を植えた人

 
『木を植えた人』(ジャン・ジオノ:著、原みち子:訳/こぐま社)を読了。2015年1月の「四金会」課題書。
 
まずは出版社の紹介文を引きます。

たった一人で希望の実を植え続け、荒れ地から森を蘇えらせた孤高の人。ひたすら無私に、しかも何の見返りも求めず、荘厳ともいえるこの仕事を成しとげた老農夫、エルゼアール・ブフィエの高潔な魂が、読む人の胸をうつ。

 
 
 2015年1月号の『致知 堅忍不抜』で紹介された本ですね。好い話です。こうした生き方を人生の到達点として選べることは素晴らしいし、誰にでも出来ることではない稀有な生き方として尊敬に値すると思います。
 ただ、訳者・原みち子氏の「あとがき」が少々残念に思われます。それは「ほんとうに世を変えるのは、権力や富ではなく……ねばり強く、無私な行為」だというくだりである。この物語に描かれた行為の気高さ、大切さは権力のあるなし、富のあるなしには関係ないはずです。たしかにこの物語が富も権力も無い人の行為であるからこそ、感動がいや増すのは事実でしょうが、だからといってこれと同じことを金持ちや権力者が行ったとしてもその価値は全く変わらないだろうと思うのです。富や権力にかかわらず良いことは良い、悪いことは悪いのです。むしろ富や権力を持つ者が良いことをするならば、それは一層広く大きな好影響を社会に与えると考えるべきです。私は訳者の原氏がどのような方なのか存じませんので、原氏がそうだというわけではないのですが、こうしたいい方を好むのは、左翼系政党やマスメディアなどに多いのではないでしょうか。現に本書の帯には朝日新聞の『天声人語』がこの一節を引いて称えているのを紹介されています。「富」や「権力」をそれだけで「悪」と決めつけてしまうのはまことに愚かなことです。そこから導き出される考えはしばしば偏狭で正当性を欠いたものになってしまいます。近年「公(おおやけ)」より「私(わたくし)」を優先しようとする傾向を目にするのもこのことと無関係ではないと思います。決してひとり一人の人権を軽視するわけではありません。むしろひとり一人の人権を包括的に広く大切にするために「公」は「私」に優先するはずなのです。そして、「富」や「権力」はその使い方さえ間違わなければ「公」に有効に役立つ存在ですから、それを端から否定するようないい方は誤謬といわざるを得ません。
 本書に書かれた老農夫、エルゼアール・ブフィエのただひたすら木を植え続けたという行為は「公」に資する行為です。ただ、彼の行為は決して「公」ためになどと肩に力の入ったものではなく、ひたすら日々積み重ねる祈りのような行為であったと思います。彼の頭の中には「富」も「力」も無く、「公」も「私」も無く、ただ、自分がすべきと思ったことを、自分に出来るだけの範囲で行ったに過ぎない。純粋に無私の行為なのでしょう。だからこそ読み手の我々はその行為を反権力とか反体制などというバイアスをかけてみるべきではないと思うのです。原みち子氏の「あとがき」は純粋に無私の行為に色(思想の色眼鏡)をつけてしまっています。ありがちなこととはいえ、まことに残念なことです。