佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『ある男』(平野啓一郎:著/文春文庫)

2022/08/05

『ある男』(平野啓一郎:著/文春文庫)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

愛したはずの夫は、まったくの別人であった――。
「マチネの終わりに」の平野啓一郎による、傑作長編。

弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から、「ある男」についての奇妙な相談を受ける。
宮崎に住んでいる里枝には、2歳の次男を脳腫瘍で失って、夫と別れた過去があった。長男を引き取って14年ぶりに故郷に戻ったあと、「大祐」と再婚して、新しく生まれた女の子と4人で幸せな家庭を築いていた。
ところがある日突然、「大祐」は、事故で命を落とす。悲しみにうちひしがれた一家に、「大祐」が全くの別人だという衝撃の事実がもたらされる……。

愛にとって過去とは何か? 幼少期に深い傷を負っても、人は愛にたどりつけるのか?
「ある男」を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。

第70回読売文学賞受賞作。キノベス!2019第2位。

【2022年映画公開決定!】
妻夫木聡安藤サクラ窪田正孝
ほか日本を代表するオールスターキャストが集結。
監督は『蜜蜂と遠雷』の石川慶。

 

 

 

 戸籍を交換して他人の人生を生きる。いったいどんな気分だろう。どうしてそんなことをしたいと考えたのだろう。自分を知る人がいない全く縁の無い町に行って一人で暮らしてみたらと想像したことはある。自分の過去を切り捨てて、まったく何もないところからの再スタート、そうしたことだ。しかし、それでも自分は自分であって、他人には知られていなくとも、自分の中に自分の過去はある。

 人間は過去を引きずって生きている。その人間を知る人の記憶からその人がどんな人かという大方の見方ができあがっている。しかしどうだろう。例えば大学進学を機に自分を変えたいと思い、髪型や服装、人との接し方をガラッと変えることはあるだろう。そうするとその人の印象は小中高校時代を知る人のものとは全くと言って良いほど違ってしまうことはあり得るのではないか。人はその人のことを、その人の見かけでしか知らない。見かけというのは、その人の外見のほか、プロフィール、たまたま実際に見たその人の行動という意味である。過去は不可逆である。しかし隠すことは出来る。そのうえでプロフィールを変えてしまうことが出来ればアイデンティティーはあっけなく消え去り、いとも簡単に別の人間ができあがってしまう。この物語では人と戸籍を交換し、その人間になりすます。

 自分が愛し、子までもうけた夫「谷口大祐」が死に、長い間没交渉となっているという大祐の肉親に連絡を取ってみると、夫は「谷口大祐」ではないとわかる。自分が確かなものと疑いもしなかったものが、実は何の根拠もないものでそう信じ込まされていただけなのだ。なんとも言えない居心地の悪さと得体の知れない不安が襲いかかる。自分はその人ことを本当は何も知らなかった。その人の過去と信じていたものが嘘だとわかったとき、自分が愛していた人の実像が形を失う。いったい自分はその人の何を愛していたのだろうかという思いが頭をもたげる。

 人を愛すると言うことは、その人のすべてを愛することだと思い込んできた。良いところもダメなところも、過去も現在も、目の前にある実像も頭の中のイメージも、とにかくあれもこれもひっくるめて愛するものだと思ってきた。しかしそれもこれも絶対に確かなものと言い切れないとしたら、はたして「愛」とはなんだろう。本書を読み終えた今、頭の中はぐちゃぐちゃです。