佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

佳肴 みを木

 11月8日~9日と東京芝での研修と会議を終え、明日は千葉幕張メッセでの「サイクルモードインターナショナル2018」視察のために都内にもう一泊。  これも仕事。 「bGo はりまサイクルツーリズム」の活動の一環です。東京駅近くに宿を取りました。

 雨模様のこともあり、ホテルから近いところで酒を飲もうと選んだのが『佳肴 みを木』(東京都中央区銀座2-2-4 ヒューリック西銀座第2ビル B1F)。名居酒屋との評判を聞き、前から行きたいと念願していた店です。18:00過ぎ、開店と同時に入店。カウンター隅っこに陣取った。

 写真がNGなので紹介できないのが残念だが、酒も肴もうまい。

 いただいたものをリストアップしておく。

  • 酒 「悦凱陣 興」を一合、燗で
  • お通し① 蓮根のポタージュ
    蓮根のすり流しを洋風の味付けで。オリーヴオイルと胡椒がピリリとアクセントになっている。
  • お通し② 茶碗蒸し餡掛け
    熱々ふわとろ玉子にキノコ餡がかかってうまい。
  • 生からすみ
    酒のうまみを引き立ててくれるアテ。
  • 酒 「七本槍 純米」を一合、冷酒で
  • 刺身盛り合わせ(黒むつ、 めじまぐろヅケ、 真鯛、 赤貝)
  • 酒 「ダルマ正宗 三年古酒」
  • 羊のミートボール
  • 〆 鯛出汁カレー 
    旨味はしっかりあるが、和風味で軽くあっさり。ちらしたアサツキがぴったり。
「羊のミートボール」と「鯛出汁カレー」はおすすめです。銀座の隠れ家としてキープしておきたい店です。
 幸せな気分でホテルまでぶらぶら歩く。季節は立冬。街の景色もほんの少し冬の気分。
 

YouTubeで落語 Vol.44『掛取万歳』(別名:掛取り、掛万、浮かれの掛取り)

YouTubeで落語>

 

『新版 落語手帖』(矢野誠一・著/講談社)に紹介された274席のうちの44席目は『掛取万歳』。別の名を『掛取り』、『掛万』、『浮かれの掛取り』。 

 噺は大晦日の長屋が舞台。ツケの回収(掛け取り)にやって来る業者と、相手の好きなものに合わせた形で撃退しようとする主人公とのコミカルなやりとりがなんとも楽しい。

 これは名人三遊亭圓生で聴きたいですね。演者の力量によっていろいろな形にあつらえるようですが、圓生師匠のは狂歌に凝っている大家、けんかっ早い魚屋、浄瑠璃好きの大坂屋、芝居好きの酒屋の番頭、三河屋には三河万歳の太夫とフルバージョンですね。掛け取りの相手次第で器用に追い払うやりとりは芸能としての格調も高く聴き応え抜群です。

 演者を選ぶ大ネタですが、聴衆にもそれなりの素養がないと本当のおもしろ味がわからない。一昔前の日本人のほうが文化レベルが高いと感じる。特に芸能に関してはそう言えるだろう。これからは圓生師匠のように演じることができる噺家はおそらく現れないのではないか。噺家の語りと聴衆の反応がぴったり合わさってこそ興が乗るというものだ。

 私は大晦日にはいつも『芝浜』を聴くことにしていますが、今年の大晦日はもう一つ『掛け取り』も聴くとしますか。

www.youtube.com

 

新版・落語手帖

新版・落語手帖

 

 

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メカジキのカレー

 今日の昼ごはんは東京芝公園近くの「オールドデリー」のカレー。

 カレーを食べると言うことは、昨夜の ×× が過ぎたということでえす。(‥ゞ

 午前中、経団連会館での研修と会議を終え、これから午後はメルパルクホールで会議です。

 辛いカレーで身体がシャキッと生き返りました。夜まで真面目にガンバリマス。といって、夜になると不真面目になるわけではありませんが・・・(^_^;

 

もつ焼き「秋田屋」

 ZRRK総会に出席のためリッチモンドホテル東京芝に前泊。

 東京芝といえばもつ焼きの名店「秋田屋」に行かねばなるまい。

 店はお客さんであふれかえっていたが、二階にちょうど二席空きがでた。私は居酒屋でよくこうした幸運に恵まれる。

 店内写真はNGであったが、「牛もつ煮込み」「特製 たたき」(一人1本限定)「もつ焼き」(てっぽー、ればー、たん)「たこやき」をアテに生ビール二杯、ハイボールを二杯。うまい。滅法うまい。とりわけ「牛もつ煮込み」と「特製 たたき」は私の経験上、過去最高レベル。

 

『王様の背中』(内田百閒・著/福武文庫)

『王様の背中』(内田百閒・著/福武文庫)を読みました。

 まずは出版社の紹介文を引きます。

王様の背中が、急に痒くなり、あんまり背中が痒いので、口を利くこともできず、家臣たちは、はらはらするばかり。外に飛び出てみると、獣や鳥や、水の中の魚たちまでどこか痒そう。何の教訓も含まない、谷中安規版画による9編の絵本『王様の背中』と、ゲーテの傑作を翻案した「狐の裁判」を併録した、百閒唯一の童話集。

 

王様の背中 (福武文庫)

王様の背中 (福武文庫)

 

 

 1994年9月5日に福武書店が発刊した初版本を古書で手に入れました。初版本といってもAmazonで1円+送料350円=351円で買ったのですけれど。でも、今日Amazonのページを見ると同じものが1800円~5000円で売られている。やはり『ビブリア古書堂の事件手帖』の最新刊『扉子と不思議な客人たち』に紹介されたからであろう。読んだ本は処分せず、本棚に並べて部屋一杯に並んだ本を眺めてはニヤニヤする変態的な私ではあるが、売価を見て一瞬Amazonで売りに出そうかと思ったほどです。そのようなさもしいことはせず、内田百閒先生の他のご本と共に本棚に収めました。

 さて本書は『王様の背中』と題した九つのお伽噺を集めたものと、ゲーテの傑作をお伽噺に翻案した『狐の裁判』を併録している。

 百閒先生は『王様の背中』の序(はしがき)には「この本のお話には、教訓はなんにも含まれて居りませんから、皆さんは安心して読んで下さい。 どのお話も、ただ読んだ通りに受け取って下さればよろしいのです。 それがまた文章の正しい読み方なのです。」と書いていらっしゃる。そして同時に『狐の裁判』のおくがきに「悪者のライネケ狐が、悪知恵をはらたかせて、立身出世するというこのお話は、どんなに正しい者でも、どんなに強い者でも、知恵がなかったら、悪者に勝つことが出来ないという教訓であります」と書いていらっしゃる。このあたりが百閒先生が「偏屈」と評される所以であろう。

 本書に収められたお伽噺の中で秀逸なのは、やはり表題作『王様の背中』であろう。それこそ何の教訓も、感動もなく、しかしそこはかとないおかしみを感ずるところなど、まことに味わい深い。

 挿画としての谷中安規氏の版画がまた、この本にいっそうの味わいを持たせており、これがまた良い。大切に保管して、何度か読み返したい本の一つである。

 

 

『管見妄語 始末に困る人』(藤原正彦・著/新潮文庫)

管見妄語 始末に困る人』(藤原正彦・著/新潮文庫)を読みました。

 まずは出版社の紹介文を引きます。

 あの日、3月11日。テレビで繰り返し映し出される津波の暴威を呆然と見ては悲嘆にくれ、原稿を一切書けなくなった。やっと筆を執れたのは3週間後のこと。自分を含めた国民を励ます気持ちで執筆した「日本の底力」――。国家の危機に際し、リーダーに求められる資質とは何か。世界が感嘆する日本人の可能性をどう生かすのか。時に厳しく時にユーモア溢れる言葉で紡ぐシリーズ第二弾。

  

管見妄語 始末に困る人 (新潮文庫)

管見妄語 始末に困る人 (新潮文庫)

 

 

 ここ数日TVで始末に困る人を苦々しく見ることがしょっちゅうある。(誰のことかは個人批判になるので明かさない) そんなことから、さて次は何を読むかと本棚にある積読本の山から本書を選んだ。ところがどっこい、藤原正彦氏のいう「始末に困る人」とは私が思っていたのとは全く別の好意的な意味の言葉であった。

 西郷南洲はこう言った。「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」。出でよ、「始末に困る人」。

(本書P63より)

 なるほど、そういうことであったか。

 本書を読みながら、我が意を得たりと膝を打つこと頻りであった。

 たとえば・・・

 自国が攻められた場合に戦う、というのはごく自然で当然の行動である。自分の家に賊が侵入し、老父母や子供達に手をかけようとしたら、どんな平和主義者でも戦おうとするからだ。「戦わない」とする日本とドイツの現象は、実に不思議な、そして歴史的にも希有のものである。何らかの力が戦後数十年を経た今も強く働いているということだ。

 ・・・(中略)・・・ 勝者である連合国により、巧妙な仕掛けが組み込まれたということだ。

 (本書P25~26より)

 

 実は小泉首相以来、首相はその時の国民的人気で決まっている。・・・(中略)・・・ これは政治が国民の顔色一つで決まる、というポピュリズムに陥ったということだ。・・・(中略)・・・ ポピュリズムは民主主義の最悪バージョンだ。マスコミがポピュリズム増幅器となっている。

 (本書P32より)

 

 元財務相中川昭一氏は稀に見る立派な政治家だったが、酔っ払い会見というヘマをするや、テレビ各社はその醜態をこれでもかこれでもかと流し続け、憫笑し続け、ついに潰したのである。マスコミは成功者がいったんつまずくと、正義を振りかざし大衆を煽る。成功者に対する大衆の嫉妬の火に油を注ぎつつ攻めまくる。リンチだ。正義とはいやなものだ。

 (本書P38より)

 

 日本国とその国民の生存は他国に委ねられてしまったのだ。命がけで守るべき国家という意識が消滅したのだ。必然的に国も個人も自衛意識と危機意識を失った。平和を希求していれば戦争に巻きこまれないし、いざとなればアメリカが助けてくれる、と何もかも他人まかせとなった。それどころか「国家意識をもつと軍国主義につながる」という終戦後のGHQによる洗脳から国民は未だに解かれていない。

 (本書P66~67より)

 

 (政治家の失言問題に関して)・・・

 私から見れば彼らは単に自らの心情を吐露し、歴史認識を開陳し、信条を語ったまでだ。政治家にだって信条や表現の自由があるはずと思うのだが、野党、テレビ、新聞は鬼の首をとったように大騒ぎする。・・・(中略)・・・ いつから日本人は度量を失ったのか。

 

 藤原氏の歴史や国家を見る目は正鵠を射ている。けだし慧眼というべきであろう。