佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

六の宮の姫君

お風呂に入る時よく、《風呂にはいるのは簡単なのに、それを文章で生き生きと書くのは難しい》という言葉が頭に浮かぶ。中学生の時に読んだ筈で、そうだとしたらいかにも芥川なのである。それに続けて《チェーホフは、水車小屋の側で瓶の割れた口が光っている、というだけで月夜を作ってしまう》というくだりがあったような気がする。
                                                         (本書P19より)

 

「菊池って弱いの」
 正ちゃんらしい問いだ。
「どちらかといえば剛胆なほうだと思う。文藝春秋をやっていた時には、過激な暴力団体が乗り込んで来て脅迫されるようなこともあったらしいの。でも、文字通り殺されるかというような時にも、絶対に自分をまげなかったんだって。少なくとも、芥川に比べたら格段に強い人でしょうよ。だからね、この『三浦右衛門』にしたって、結局《肯定》の話じゃないと思うのよ。右衛門を嘲り罵る武士達がいるわけでしょう。それを見る目が凄いの。勇ましく死ぬのを見栄にして《他人をアッといわせる曲死にの方法を研究していた》連中だっていうの。《曲死》という言葉が凄いでしょう。つまり菊池という人は《否定》を《否定》する人なのよね。それが時として異常なまでに執拗だから、そこに《力》が生まれるのよ。そういう点で《肯定》の作家とは、根本的に違うんじゃないかな」
「《肯定》の作家というと?」
「うーん。武者小路実篤かなあ」
                                     (本書P127-P128より)

 

   

 

 『六の宮の姫君』(北村薫・著/創元推理文庫)を読みました。
 2009年に『鷺と雪』で直木賞を受賞された北村薫氏の小説の中でもたいへん評価の高い小説です。ただし『鷺と雪』は上流家庭のお嬢様・英子とそのおかかえ運転手・ベッキーさんを主人公とした「ベッキーさんシリーズ」と呼ばれるものだが、この『六の宮の姫君』は「円紫さんと私シリーズ」と呼ばれるシリーズものの第4弾です。シリーズものの順番を無視して第4弾から読むなど、些か乱暴かと思いましたが、シリーズ一の傑作といわれる本書を読んでその面白さのほどを計り、満足すればシリーズ第1弾から読み直そうという魂胆。北村さんにはたいへん失礼な読み方をしますがお許しいただきたい。結論から言いますと、「円紫さんと私シリーズ」全巻を読ませていただきます。明日、本屋に発注します。
 さて、本書の中身ですが、若い頃、芥川に直に会って話したことがあるという文壇の長老から芥川が短編『六の宮の姫君』について《あれは玉突きだね。……いや、というよりはキャッチボールだ》と言ったというエピソードを聞いた主人公がその言葉の意図解き明かすために、芥川の交友関係を探っていく文学推理ものという仕立てです。国立図書館にしか無いような資料もあたっての謎解きになるので、けっこう難解な印象があります。しかし「本好き」にとってはその謎解きの過程に、実在の小説家、芥川龍之介、菊池寬、谷崎潤一郎武者小路実篤佐藤春夫山本有三志賀直哉などなどの手紙やエピソードが登場するので、ワクワクしたり、へえーっと感心したりしながら読み進むことができます。私は文学部の学生というのはこんな風に本の迷宮を彷徨うことができるのだなと軽い嫉妬をおぼえました。もしも私が三十数年前、大学進学に際して文学部を選んでいたら、本や作家を巡ってこのような深く興味を誘う生活を送ることができていたのだろうか? という疑問が頭をもたげたのであるが、答えはおそらくノーだ。高校卒業から三十数年経ってやっとほんの少しは小説や人生の味わいを感じられるようになった気がするのであって、二十歳前後の私ときたら本こそ読んでいたものの、それより側にいて私を理解してくれる女性を渇望していたのであり、それに比べれば芥川や菊池、谷崎に対する興味などまさに大海の一滴に過ぎなかっただろう。まあ、せめて生まれ変わったら早稲田の文学部に入って神田神保町をうろつくことを夢見よう。

 

読みながらの雑感を無作為に記しておく。

  • 作中に関容子さんの『日本の鶯 堀口大學聞書き』(岩波現代文庫)を北杜夫が《一読、巻をおく能わずというのがまさしく本書である》と評したという記述がある。(P129)  読みたくて即発注した。
  • 円紫さんと主人公《私》が「六の宮の姫君」の謎について語るところもさることながら、落語の演目『六尺棒』の魅力について語り合うところがステキだ。北村氏の落語に対する造詣の深さと温かいお人柄が十二分に感じられる会話になっている。つまりは落語の登場人物をみる北村氏の温かい視線が感じられるのだ。そして、作中で円紫さんがこの演目を夏にしか演らない理由が解き明かされる。これが会話の中のちょっとしたミステリなのだが、その答えが泣かせるのだ。(P151-P155)
  • 芥川の晩年の文章に関する話。もし生まれ変わるなら、というテーマで書かれたらしい。「もし生まれ変わるなら、馬か牛になる。そして悪いことをする。そうしたら神仏が雀か烏にするだろう。そこでまた悪いことをしてやる。今度は魚か蛇にされる。またそこで悪いことをする。虫にされる。それでもまた悪いことをする。樹か苔にされる。また悪いことをする。バクテリアにされる…… それでもまだ悪いことをしてやったら、神や仏は僕をどうする了見だろう。それを思うと、生まれ変わり続けて、順々に悪いことをして、死に続けていってみたい気もする」 芥川というのはどうしようもない深い絶望と孤独を心に抱えていたのだなあ。

 

最後に裏表紙にある出版社の紹介文を引きます。


最終学年を迎えた「私」は卒論のテーマ「芥川龍之介」を掘り下げていく一方、田崎信全集の編集作業に追われる出版社で初めてのアルバイトを経験する。その縁あって、図らずも文壇の長老から芥川の謎めいた言葉を聞くことに。「あれは玉突きだね。…いや、というよりはキャッチボールだ」―王朝物の短編「六の宮の姫君」に寄せられた言辞を巡って、「私」の探偵が始まった…。