佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

「風の歌を聴け」(講談社/村上春樹 著)を再読

風の歌を聴け (1979年)

風の歌を聴け (1979年)

 久しぶりに村上春樹氏の「風の歌を聴け」を読みなおした。私がこの本を初めて読んだのは1984年のことだった。大学を卒業し就職して2年ほどたった頃だ。あの頃を思い出し懐かしい気分に浸りながら。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

印象的な書き出しだ。

ストーリーは次のようなものだ。
「僕」は東京の大学生で、故郷の海辺の街(神戸?)に帰省し、友人の「鼠」とジェイズ・バーでビールを飲む日々を過ごしていた。ある晩、「僕」はジェイズ・バーの洗面所で酔いつぶれていた小指のない女の子を彼女の部屋まで送り、そのまま彼女の部屋で一夜を明かし、彼女から卑劣漢となじられる。数日後、偶然、街のレコード屋で小指のない女の子と再会する。やがて誤解は解け、彼女と親しくなるが、彼女は行き先を告げずに旅に出る。何日かたって再び会った小指のない女の子は、旅に出たというのは嘘だと言う。子供を堕ろしてきたのだった。彼女の部屋で再び一夜を明かすが、「僕」と小指のない彼女はなにもないまま別れる。夏休みは終わり、「僕」はバスに乗って東京へ帰る。
「僕」が冬休みに街に戻ったときにもう彼女はレコード店も辞め、アパートも引き払っていた。
29歳になった「僕」は結婚して東京暮らしている。「鼠」は海辺の街に住んで小説を書き続けている。そのように時は過ぎる。

13P

一夏中かけて、僕と鼠はまるで何かに取り憑かれたように25メートル・プール一杯分ばかりのビールを飲み干し、「ジェイズ・バー」の床いっぱいに5センチの厚さにピーナッツの殻をまきちらした。 

23P

「ビールの良いところはね、全部しょうべんになって出ちまうことだね。ワン・アウト一塁ダブル・プレー、何も残りゃしない。」

この小説の中で「僕」と「鼠」はひたすらビールを飲む。このビールを飲むと言う行為によって村上氏は「人は皆、不毛な人生を生きている」ということを表現しようとしたのではないか。

169P

「ねえ、私が死んで百年もたてば、誰も私の存在なんか覚えてないわね。」
「だろうね。」と僕は言った。

「不毛な人生」を言い換えれば、人一人の人生なんて宇宙の悠久からみれば取るに足りないものだということ。宇宙は悠久の太古から存在し、今も進化し続けている。そこに何らかの意志があるかどうかはわからない。我々一人ひとりは意志を持って生きているつもりでいるが、宇宙にとってそれがどんな意味を持っているのか、そんなことは誰にもわからない。

16P

「はっきり言ってね、金持ちなんて何も考えないからさ。懐中電灯をものさしが無きゃ自分の尻も掻けやしない。」
「金持ちであり続けるためには何も要らない」人工衛星にガソリンが要らないのと同じさ。グルグルと同じところを回ってりゃいいんだよ。」-16P-

「僕」の友人「鼠」の言葉である。毎日、毎日果てしない無駄を積み重ねる不毛に、「金持ちなんて・みんな・糞喰らえさ。」と言わせている。

この小説から作者の強いメッセージは読み取れない。仮に強いメッセージがあったとしても、それを声高に言うような野暮はしない。村上春樹の魅力はそこにある。何か言いたいことがあっても、正面からそれを言うことをせずはぐらかす。村上春樹の魅力、それは例えば絵画のような抽象的な概念なのではないか。洒脱で垢抜けた文章。ポップアートのような小説というのが一番ぴったりくる。