佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

愛の反対は憎しみではなく、無関心

 昨日は、申し訳ないほど平穏無事な一日を過ごしました。
 東日本で被災された方々の辛さとあまりにもかけ離れた平穏になんとなく申し訳ないような気持ちです。そんな気持ちをごまかすように、押し入れをゴソゴソ探し毛布やタオルを探しだし会社の窓口に持っていきました。今日は自治会の総会で義援金の協力依頼があります。救援物資を供出したり、義援金を募集したりとありきたりのことをほんの少ししかしていません。申し訳ないことです。


 でも、後ろめたいような気持ちを持ちながらも、日々の生活はできるだけ普通にしていようかと……。笑うときは笑い、遊ぶときは遊び、仕事ではきちんと責任を全うする。「シンディーローパーの爪の垢」を煎じて飲んだわけではありませんが、今はそんな気持ちです。プロ野球の開幕時期もどちらでも良いです。ただ、過度な自粛ムードが経済にマイナスし、結果として更に震災の傷口を拡げる事態は避けた方が賢明だと思っています。

 

 昨日思ったことがもう一つあります。

 

 車で移動中に聴いたFM放送であるディスクジョッキーがマザー・テレサの言葉を引用してしゃべっていました。

 

  『愛の反対は憎しみではなく、無関心』

 

マザー・テレサが来日したときの言葉だそうです。曰く、
「日本に来てその繁栄ぶりに驚きました。日本人は物質的に本当に豊かな国です。しかし、町を歩いて気がついたのは、日本の多くの人は弱い人、貧しい人に無関心です。物質的に貧しい人は他の貧しい人を助けます。精神的には大変豊かな人たちです。物質的に豊かな多くの人は他人に無関心です。精神的に貧しい人たちです。愛の反対は憎しみとおもうかもしれませんが、実は無関心なのです。 憎む対象にすらならない無関心なのです。」

 

 このことを引き合いに出したディスクジョッキーの意図は被災者への関心を失ってはならない、もっと弱い者、持たざる者への関心を持つべきだと言うことだったと思います。仰るとおりです。大して出来ることはないけれど、関心を持ち続けることは大切だと思います。

 

 でも、マザー・テレサの日本人のとらえ方にはほんの少し異論があります。別に世界のマザー・テレサにもの申すなどと大それた事ではありません。ちょっとだけ心に引っかかりがあるのをここに書いておきたいと。

 

 「日本は豊かに反映しているのに弱い人、貧しい人に無関心だ」という捉まえ方は日本人を知らない人の言葉ではないでしょうか。日本人にそんなところが無いとはいいません。でも、多くの日本人はそこに弱い人、貧しい人かいれば無関心ではいられない優しい人々です。震災後の無秩序のなかにあっても、暴動も略奪もない。若干の火事場泥棒的なことはあるのだろうが、それもごく一部だ。多くの人々が他を思いやり、自分だけが良ければいいという考えなど微塵もない。

 

 では、そんな心優しい日本人が何故弱者に無関心なように見えるのか。それは日本人の心のありようや美意識にその原因があるのではないかと私は考える。一つは日本人が非常に恥ずかしがり屋だということ。震災以来、毎日TVに流れているACジャパン(旧公共広告機構)のCF、妊婦さんに電車で席を譲るのをためらった学生が、急で長い階段を歩くおばあちゃんにためらいながら手を差し伸べるというあれです。気持ちはあっても、態度、行動に表すのが苦手というやつです。二つ目は日本人には無関心を装うやさしさ、気遣いがあるということ。お隣に悲惨な状況にある人がいたとして、関心を寄せながらもそのことをあからさまに相手に覚らせることを潔しとしない。関心を寄せないことでその人の一分を立てるというやさしさを日本人は古くから持ち続けていると思うのです。外国人にはそのあたりのあやが解らない。震災の後の日本人の秩序ある行動を見て世界各地から賞賛の声があがっているという。なぜ日本人は暴動を起こさないのか、なぜ日本人は略奪しないのか。外国人のそのような問いに対し我々は次のように答えるほかない。

 

  『それは我々が日本人だからです』