佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『夜と霧(新版)』(ヴィクトール・E・フランクル:著/池田香代子:訳/みすず書房)を読んで

2022/01/26

『夜と霧 新版』(ヴィクトール・E・フランクル:著/池田香代子:訳/みすず書房)とそれに併せ『NHK「100分de名著」ブックス フランクル 夜と霧』(諸富祥彦:著/NHKブックス)と『フランクルに学ぶ 生きる意味を発見する30章』(斉藤啓一:著/日本教文社)を読みました。

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 まずはそれぞれの本について出版社の紹介文を引きます。

 

 心理学者、強制収容所を体験する―飾りのないこの原題から、永遠のロングセラーは生まれた。“人間とは何か”を描いた静かな書を、新訳・新編集でおくる。
【目次】
心理学者、強制収容所を体験する(知られざる強制収容所上からの選抜と下からの選抜 ほか)
第1段階 収容(アウシュヴィッツ駅最初の選別 ほか)
第2段階 収容所生活(感動の消滅苦痛 ほか)
第3段階 収容所から解放されて(放免)

〈わたしたちは、おそらくこれまでのどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ〉「言語を絶する感動」と評され、人間の偉大と悲惨をあますところなく描いた本書は、日本をはじめ世界的なロングセラーとして600万を超える読者に読みつがれ、現在にいたっている。原著の初版は1947年、日本語版の初版は1956年。その後著者は、1977年に新たに手を加えた改訂版を出版しました。世代を超えて読みつがれたいとの願いから生まれたこの新版は、原著1977年版にもとづき、新しく翻訳したものです。私とは、私たちの住む社会とは、歴史とは、そして人間とは何か。20世紀を代表する作品を、ここに新たにお送りします。

 

 ナチスによるホロコーストを経験した心理学者フランクル。彼は強制収容所という過酷な状況に置かれ、絶望にあえぐ人間の様子を克明に記録しながら、それでも人生には意味があり、希望があることを訴え続けた。

「あなたがどれほど人生に絶望しても、人生のほうがあなたに絶望することはない」。時として容赦なく突きつけられる“運命”との向き合い方を探る。

 姜尚中氏の特別寄稿/新規写真/読書案内などを新たに収載!

 

 ナチス強制収容所での極限の体験を綴った世界的なロングセラー『夜と霧』で有名な精神科医V・E・フランクル。彼は、この体験を通して得た「人生の本質」についての思想をもとに、私たち一人一人に宿る「ロゴス」(愛、生命力、原理)を目覚めさせる「ロゴセラピー」を開発し、多くの人々の深い心の傷を癒しつづけた。

 本書は、こうしたロゴセラピーやフランクルの遺した言葉に基づきながら、私たちが最良の人生を築くために必要な30のエッセンスを示してゆく。

 

 この『夜と霧』は池田香代子の訳による新版です。ちなみに旧版は霜山徳爾の訳で1985年、同じくみすず書房から出版されています。

 フランクルは、第2次世界大戦中、ナチの強制収容所生活を体験し、生還したユダヤ人の精神科医です。彼の妻と両親は、収容所内で餓死、あるいは病死してしまいました。本書はフランクルの実体験として、強制収容所の過酷な環境の下で、人の心理はどうなるのかを仔細に観察した記録であり、彼が思索を重ねた末に到達した人生観を綴った作品です。

 まず『夜と霧』を読もうと思ったきっかけについて書きます。それは養老孟司氏が何かのTV番組で、若い頃これを読み耽っていたと仰っていたのを聴いたからです。どんな本なのだろう自分も読んでみようと興味を持ったのです。「読むべき本」のリストに必ず挙げられるほどの世界的名著であるにもかかわらず、もし養老氏のその言葉に触れなければおそらく私は本書を読むことはなかっただろうと思います。というのも私がユダヤ人に対して些かの心証の悪さを拭いきれないからです。誓って言いますが、それはユダヤ人に対する人種的な、あるいは宗教的な差別ではありません。私には深く信仰する宗教がないので、特にキリスト教徒が持つ宗教的忌避はありません。ユダヤ人の知り合いもありません。というよりこれまでの人生でユダヤ人に会った覚えはありませんし、もし会っていたとしてもそれと知らずに会っています。ユダヤ人と言えば子どもの頃に読んでもう記憶の彼方にある『アンネの日記』がまず念頭にうかびます。第二次世界大戦中のユダヤ人の境遇に同情こそすれ、けっして嫌いになることはありません。にもかかわらず「些かの心証の悪さ」を持ってしまうのはひとえにイスラエルパレスチナの問題にあります。イスラエルが間違っておりパレスチナが正しいと言っているわけではありません。どちらも間違っている、あるいはどちらも正しいのでしょう。ただ両者を見るに歴然とした力の差を感じます。もちろんイスラエルの力がうえで比較強者です。

 唐突ですがここで村上春樹氏が2009年2月にエルサレム賞を受賞したときのスピーチの一部を引きます。


もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。
そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、ほかの誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです。もし小説家がいかなる理由があれ、壁の側に立って作品を書いたとしたら、いったいその作家にどれほどの値打ちがあるでしょう?
さて、このメタファーはいったい何を意味するのか?ある場合には単純明快です。爆撃機や戦車やロケット弾や白燐弾や機関銃は、硬く大きな壁です。それらに潰され、焼かれ、貫かれる非武装市民は卵です。それがこのメタファーのひとつの意味です。
しかしそれだけではありません。そこにはより深い意味もあります。こう考えてみて下さい。我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにひとつの卵なのだと。かけがえのないひとつの魂と、それをくるむ脆い殻を持った卵なのだと。私もそうだし、あなた方もそうです。そして我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにとっての硬い大きな壁に直面しているのです。

 村上氏の言う「壁」=「爆撃機や戦車やロケット弾や白燐弾や機関銃」は明らかにイスラエルハマス双方を指します。しかし村上氏の意図するところを敢えて逸脱して述べるならば、現状のイスラエルの力とハマスの力には大きな差があり、その意味でイスラエルは硬く大きな壁でハマスは脆い殻を持った卵に見えます。ハマスが正義でイスラエルが不義と言っているのではありません。力を持つ者には、その力にふさわしい振る舞いがあると思うのです。私から見てイスラエルの振る舞いは持てる力にふさわしいものには見えないのです。

 くどくどと書きましたがこれが私の持つユダヤ人に対する些かの心証の悪さの正体です。そしてその心証がユダヤ人迫害をあつかったものを読もうとする気分に水を差すのです。「ゲシュタポの非道ぶりに深く憤り、その犠牲となった人びとの死を心から悼む。ユダヤの人びとの気持ちを思うとやるせない。しかし今のイスラエルパレスチナの情況をみると、それはそれでちょっと・・・」 そうした気分と言えばよいのでしょうか。ところがどうでしょう。本書を読んでそうした気分はまったく持たず、フランクル強制収容所でのきわめて過酷な体験にもかかわらずけっして陰鬱な気分に囚われてしまうこともなく、ある種の爽やかさすら感じた。これには驚きました。

 ナチスユダヤ人迫害は非道を極め、それほどのことを人間がしたとは信じがたいほどのものでした。しかもその行為はカポーと呼ばれる同胞によるもののほうがより苛烈であったといいます。カポーというのはユダヤ人囚人の中で収容所の警備監督にあたるナチス親衛隊の手先となることで衣食住の面で特権を与えられ、同胞のユダヤ人に暴行を加えたり、ユダヤ人の死骸の処理に従事した者のことです。もちろん本書にはそうしたことが事実として書かれています。しかしフランクルは本書をナチスやその協力者の所業を告発し糾弾したり戦争の悲劇を語ることを目的として書いてはいません。苛烈を極める収容所の環境にあってなお見いだすことが出来た崇高な振る舞いにスポットをあてて書いているのです。フランクルは自らを見舞った不幸不運を嘆いたり、非道の輩に対する恨み言を述べるのではなく、人間そのものについての思索を巡らせます。その態度こそがフランクルが3年もの間、強制収容所の中で理不尽を耐え忍び生き延びた末に到達した精神の高みであろうと思います。

 本書はそう分厚いものではありません。しかしその中に書かれていることは示唆に富んでおり、読者に様々なことを気づかせます。例えばたとえ絶望の淵に沈んでいても愛する者への思いが生きる力を与えてくれ心が満たされることを。あるいは人は(もちろんそれはごく限られた人だが)外面的には破綻し、死をも避けられない絶望的状況にあってなお、内面的に人としての崇高さに達することができるということを。またあるいは、人に生きる力を与え、過酷な状況にあっても生きながらえせしめたものは、肉体の頑強さでも、立ち回りのうまさでもなく「崇高な精神性」だということ、そして内面的な精神の自由と豊かさは何ものにも侵されも奪われもしないのだということを。

 収容所でユダヤの人びとは、およそ人として想像できないほどの酷い扱いを受けました。その結果、ある人は抜け殻のようになり生きる気力もなくしていった。またある人は賤しくも狡猾に立ち回り、中には魂を売ってナチス親衛隊にへつらいその手先になる者もいたといいます。しかしその一方で、耐えがたいほどの苦しみと飢えの中でも他人への思いやりを持ち、人としての矜持を失わない人もあったといいます。たとえ強い者が圧倒的な力で弱い者を蹂躙し従わせようとしても、人を全面的に支配することは出来ません。いかなる手段を持ってしても侵すことのできない精神も確かにある。それをフランクルは収容所の中で確かに目の当たりにしたのです。

 もうひとつ、特に記しておきたいことがあります。それは強制収容所から解放された者の持つ危険についてのくだりです。「第三段階 収容所から解放されて」の章から一部を抜粋して引きます。

 

 強制収容所から解放された被収容者はもう精神的なケアを必要としないと考えたら誤りだ。 (中略) 強制収容所に入れられていた人間は、当然のことながら、解放されたあとも、いやむしろまさに突然抑圧から解放されたために、ある種の精神的な危険に脅かされるのだ。 (中略) 潜函労働者が(異常に高い気圧の)潜函から急に出ると健康を害するように、精神的な圧迫から急に解放された人間も、場合によっては精神の健康を損ねるのだ。
 とくに、未成熟な人間が、この心理学的な段階で、あいかわらず権力や暴力といった枠組にとらわれた心的態度を見せることがしばしば観察された。そういう人びとは、今や解放された者として、今度は自分が力と自由を意のままに、とことんためらいもなく行使していいのだと履き違えるのだ。こうした幼稚な人間にとっては、旧来の枠組の符号が変わっただけであって、マイナスがプラスになっただけ、つまり、権力、暴力、恣意、不正の客体だった彼らが、それらの主体になっただけなのだ。 (中略)
 不正を働く権利のある者などいない、たとえ不正を働かれた者であっても例外ではないのだというあたりまえの常識に、こうした人を立ちもどらせるには時間がかかる。そして、こういう人間を常識へとふたたび目覚めさせるために、なんとかしなければならない。・・・・・・・・・・・

 

 なんという高みだろう。被害者としての立場を超えて、心情に流されず公正な視点から自分たち被収容者がどう振る舞うべきか、どうあるべきかを述べているのだ。そんなフランクルが1940年代のシオニズムイスラエル建国、その後の憎悪と復讐の連鎖を、それによって流されたおびただしい血と哀しみの涙をどう見ただろう。どう感じただろう。察するにあまりあります。

 それに関して、訳者あとがきを読んで知ったことがあります。それは旧版と新版に大きな違いがあるということです。そう、この新版はフランクルが改訂を加えて出されているのです。私はこの新版の訳しか読んでいないので、これは訳者の指摘がなければ気づきようのないことです。「旧版に多出した“モラル”という言葉が新版からはほとんどすべて削られている」こと。また「旧版には“ユダヤ人”であるとか“ユダヤ教”など“ユダヤ”という言葉が一度も使われていないが、新版には新たに付け加えられたエピソードのひとつに、“ユダヤ人”という表現が二度出てくる」ということ。そしてその付け加えられたエピソードは「親衛隊の中にも命令に背き被収容者に寄り添った者もいた。被収容者に暴力を振るったことは一度もなく、それどころか病気になった被収容者のために、こっそりポケットマネーからかなりの額を出して町の薬局から薬を買ってこさせて与えていた収容所所長がいた。そして収容所が解放されたとき、ユダヤ人収容者たちはこの親衛隊員をアメリカ軍からかばい、この所長に対しアメリカ軍に髪の毛一本たりともふれさせないという条件をつけて引き渡した。そしてアメリカ軍指揮官はあらためてこの親衛隊員をあらためて所長に任命し、この親衛隊員は被収容者のために近在の村人から衣類や食料を調達した」という事実です。訳者池田氏はこのことを、イスラエルによる西岸・ガザ地区への「入植地」建設の動きが強まった1970年代の動きと新版が上梓された1977年という時期とを考え合わせて次のように推し量ります。「だからこの時期、フランクルは立場を異にする他者同士が許しあい、尊厳を認め合うことの重要性を訴えるために、この逸話を新たに挿入し、憎悪や復讐に走らず、他者を公正にもてなした“ユダヤ人被収容者たち”を登場させたかったのだ、と私は見る」と。

 ユダヤ人であるということだけでナチス親衛隊からあれほどのひどい仕打ちを受けたフランクルコスモポリタンともいえる高みにいるということに私は深い尊敬の念を抱きます。そしていつの日にかフランクルの至った精神の高みが、あるいは村上春樹エルサレム賞受賞スピーチ「壁と卵 – Of Walls and Eggs」がイスラエルパレスチナの人びとに理解され、彼の地に真の和平が訪れることを願わずにいられません。