佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『魯山人味道』(北大路魯山人・著/平野雅章・編/中公文庫)

魯山人味道』(北大路魯山人・著/平野雅章・編/中公文庫)を読みました。久方ぶりの再読です。

 もともと『魯山人味道』は昭和49年6月に千冊の限定本として東京書房社より上梓されたらしい。それが昭和55年4月に中央公論社によって文庫化されたもの。私が持っているのは平成4年発刊の17版である。前に読んだのがいつかはっきり覚えていないが、おそらく家飲みをはじめ、酒肴を作るべく時々台所に立ち始めた平成5年ごろに読んだものと思う。

 出版社の紹介文を引きます。

書をよくし、画を描き、印を彫り、美味を探り、古美術を愛し、後半生やきものに寧日なかった多芸多才の芸術家―魯山人が、終生変らず追い求めたのは美食であった。折りに触れ、筆を執り、語り遺した唯一の味道の本。

 

魯山人味道 (1980年) (中公文庫)

魯山人味道 (1980年) (中公文庫)

 

 

魯山人味道 (中公文庫)

魯山人味道 (中公文庫)

 
 

 

  魯山人の随想、談話が掲載された雑誌や資料、魯山人の生前に平野氏が聴いた話などが編纂されているだけに、様々な話がちりばめられている。それだけに飽きずに頁をめくり続けた。印象に残った言葉、食べてみたい料理、あげればキリがないが、メモ代わりにいくつか記載しておきたい。

 まず、魯山人が繰り返し述べているのは、「料理のよしあしは材料のよしあし如何による」こと、そして「すべてのものは天が造る。人はただ自然をいかに取り入れるか、天のなせるものを、人の世にいかにして活かすか、ただそれだけだ」ということ。さらに「せっかく骨折ってつくった料理も、それを盛る器が死んだものでは、全くどうにもならない」ということ。

 次に魯山人が最高の味だと賞賛しているもの。それは河豚と蕨です。魯山人は言います。曰わく「ふぐの美味さというものは実に断然たるものだ――と、私は言い切る。・・・・ふぐの美味さというものは、明石だいが美味いの、ビフテキが美味いのという問題とはてんで問題がちがう。調子の高いなまこやこのわたをもってきても駄目だ。すっぽんはどうだと言ってみても問題が違う。フランスの鵞鳥の肝だろうが、蝸牛だろうが、比較にならない。もとより天ぷら、うなぎ、すしなど問題ではない。・・・・ひとたびふぐを前にしては、明石だいの刺身も、おこぜのちりも変哲もないことになってしまい、食指が動かない。ここに至って、ふぐの味の断然たるものが自覚されてくる。しかも、ふぐの味は、山におけるわらびのようで、その美味さは表現しがたい」 私などふぐは確かに美味だと思うが、刺身で言えば鰤や鯖、鰯など独特の風味のある魚のほうがどちらかといえば好きであり、そうした一つ間違えば嫌味にもなる味をキリッとした酒と合わせて楽しむのが好きなのだが、食通も極めれば魯山人のように味が無いようで微かに滋味を感じ取れるものを最高と言うようになるのだろうか。

 さらに、魯山人が美味いと言うもの。魚の肝は鱧、鯛、カワハギの順だそうである。鱧の肝、鯛の肝を食ったことがないが、一度試してみなければなるまい。夏に食べたいちょっとしたもの。雪虎(ゆきとら)_揚げ豆腐を焼き大根おろしでたべる。錦木(にしきぎ)_薄く削った上等のかつをぶしとねとねとにおろした山葵のよいのを混ぜ、醤油を適量かけ、アツアツの御飯に載せてたべる。白瓜の皮_普段捨ててしまう白瓜の皮を食前1時間ほど糟味噌に漬けてたべる。鰹中落ち味噌汁_これも大概捨ててしまう鰹の中落ちの骨の周りに残った身をハマグリの貝殻かなにかでこそげ取り、味噌をあわせて(鰹の身3に対して味噌7の割合)擂り鉢でする。これで味噌汁を拵える。ただしアクをよく取ること。昆布とろ_刻み昆布と醤油加減したかつおだし(刻み昆布1にかつおだし2の割合)を擂り鉢に入れ、ドロドロに擂る。炊きたてご飯にかけて食べる。魯山人は決しておごった食材ばかりを好むのではない。その食材なりの美味さを引き出すようキチンと手間暇をかけて食べている。たとえそれが茶漬けであっても、一工夫、一手間かけるのが魯山人である。納豆の茶漬け、マグロの茶漬け、天ぷらの茶漬け、鱧、穴子、鰻、ごり、車海老・・・。様々なネタを使った茶漬けの作り方は参考になる。

 山椒魚や蟾蜍も食したようだが、ありきたりのものでもさぞうまかろうと思わせるのはさすが魯山人だ。