佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

ネクタイと江戸前

 いつであったか、地下鉄の中で向こう側に座る男を睨みながら、祖母が私の耳元で囁いた。

「おまい、まちがったってつっかけで地下鉄に乗ったりするんじゃあないよ」

 以来私は、サンダルどころかスニーカーをはいて外出したこともない。個人的にはさしたる気構えも思想もあるわけではないから、江戸前の躾に呪縛されているのであろう。東京都は元来、それくらいよそいきの街であった。

                                    (本書100Pより)

 

『ネクタイと江戸前』(日本エッセイスト・クラブ編/'07年版ベスト・エッセイ集)を読みました。

裏表紙の紹介文を引きます。


浅田次郎氏による表題作は、生家では勉強しろなどと説教されたことはないが、人前に出るときには厳重な服装点検があり、これこそ江戸前の気風であると説く。佐藤愛子氏は「日本人の底力」で、我慢を美徳とする教育を受けてきたことを明かす。名手たちの61篇の短文の饗宴には、日本人の知恵と生きることの喜びが溢れている。


 名文家の文章である。それぞれ味わい深いが特に好きなのは廣淵升彦氏の「コンドルと車輪の物語」だ。現代人から見ても想像を超える高度なインカ文明を有した南米が、聖なる太陽を崇めるあまり、太陽に似た丸い形をしたものをいっさい生活に用いなかったために、スペイン人たちの泥に汚れた車輪の上に据わった大砲の前に為す術もなく敗れた。それから四百年以上、白人に支配され、インカの神々を拝むことを禁じられキリスト教を信仰することを強制された。女たちは犯され、男たちは奴隷として過酷な労働を強いられた。「コンドルは死んだがいつかよみがえる。そして自由に大空を飛ぶようになる。その日インカもまたよみがえるのだ」 この言葉が虐げられた人々の唯一の希望であったという。

 カバーに使われた安野光雄氏の画もすばらしい。