佐々陽太朗の日記

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『忍びの国』(和田竜/著・新潮文庫)

 

 

「忍びづれに殿軍など任せられるか」
 左京亮は平兵衛に怒鳴り上げた。三郎左衞門の力量を疑ってのことではない。これまで伊賀者と蔑んできた自分が、三郎左衞門に命を救われるなど、武者としての面目が許さない。
「長野殿」
 平兵衛は怒気を発した。すでに阿波口の退却はこの馬野口にも報されていた。
「御本所が退かれたいま、阿波口の敵はほどなく馬野口に押し寄せる。柘植殿を武者として遇するならば、殿軍の申し出を受けよ」
 左京亮は口を一文字に引き結んで考えていたが、
「柘植」
 と、その名を叫んだ。
 とっさに三郎左衞門がこちらを向いた。すでにこの伊賀者は、左京亮より下流の乱戦の中にいた。
 左京亮は三郎左衞門を睨むように見つめていたが、やがて、
「これまでの非礼、我が友、日置大膳の分まで詫びを入れる。許せ」
 聞いた三郎左衞門は左京亮に向かって力強くうなずいた。
                                                   (本書320Pより)

 

 

忍びの国(新潮文庫)

忍びの国(新潮文庫)

 

 

 

 

忍びの国』(和田竜/著・新潮文庫)を読みました。和田氏は昨年『のぼうの城』を読んでその才能に感歎しきりだった作家です。事実『のぼうの城』は第139回直木賞候補作に選ばれ、本作『忍びの国』は第30回吉川英治文学新人賞候補になっている。巻末に解説を寄せている児玉清氏も本書を次のように絶賛している。


壮大なフィクションと史実を綯(な)い交ぜ、高く舞い上げた物語の風船をしっかりと大地に結びつける作家の手腕は実に心憎いばかりに巧みだ。奇想天外さとリアリティの巧妙なる羽交い締め技の連続に、ついには窒息するほどの面白さに悶絶させられることになる。


 

さらに裏表紙の紹介文を引きます。


時は戦国。忍びの無門は伊賀一の腕を誇るも無類の怠け者。女房のお国に稼ぎのなさを咎められ、百文の褒美目当てに他家の伊賀者を殺める。このとき、伊賀攻略を狙う織田信雄軍と百地三太夫率いる伊賀忍び軍団との、壮絶な戦の火蓋が切って落とされた―。破天荒な人物、スリリングな謀略、迫力の戦闘。「天正伊賀の乱」を背景に、全く新しい歴史小説の到来を宣言した圧倒的快作。


 


 児玉清氏の絶賛ぶりもむべなるかなと思えるだけのおもしろ本でした。まさに戦国エンターテイメントである。
 織田信長の次男・織田信雄は父信長の北畠氏攻略戦の和睦条件として、北畠具教の娘・凜を嫁にもらい北畠家の婿養子となっていた。物語の導入部は信雄が嫁の父・具教を殺しに行く場面である。従者は三人。うち二人、日置大膳と長野左京亮にとって北畠具教はかつての主である。もう一人の従者・柘植三郎左衞門の出自は伊賀であるが、親子・兄弟・親戚も関係なく己の利益のために争う伊賀の人情風情に絶望し北畠の一門・木造家に使えている。「一国を治める器量なき者は滅する」のが定めの乱世にあって、かつての主を討つ事の是非を問うところからこの物語は始まるのだ。そして、名をこそ惜しむ武門の価値観と自分の利益のためには平気で嘘をつき、人を裏切り、肉親を殺すことをもためらわない価値観を持つ忍び。この価値観の対峙が物語の底流を貫き、それぞれの登場人物の生き様、あるいは死に様をもって読者に判断を迫る。そのあたりが本書を読む上での醍醐味であろう。
 余談であるが、和田氏が登場人物に時代劇風言葉を使わせず、現代風の言葉でしゃべらせているところに違和感無しとはいえないが、そのことが良い意味で親近感とリアリティーを醸し出している。
 個人的には『のぼうの城』の方が好きだが、それに比肩するだけのおもしろみのある本です。『のぼうの城』に軍配を上げたのは、ひとえに敵役・石田三成の魅力にあります。ちなみに主人公の思い人の魅力は引き分け。甲斐姫のぼうの城)もお国(忍びの国)もどちらも勝ち気で魅力的な女性。無門はお国にぞっこんである。己が生き残る術にのみ価値を置き、その他を一切顧みない忍びに身を置く無門がお国に惚れた。人を愛し思いやる心や名誉を重んじる心など忍びとして生きていくうえで何の価値も持たないばかりか、かえって邪魔になる。お国に惚れたことが無門のアキレス腱となってしまったのは必然であるが故に悲しい。無門は「嫁を大事にする男」だ。それは今や売れっ子作家となった森見登美彦氏とそのご友人明石氏、そして私めに共通する美質である。故に私は本書を読み終えたときに呟いた。
「無門よ、それもまたよし!」と。