佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

吉原御免状

 虚空に向かって、大声で喚(わめ)き問いかけたい。そんな熱い思いが、昴(たか)まってくるのを、誠一郎は感じていた。

「滅びしかない」

 水野がポツンといった。

「滅び?」

「そうだ。俺たちに出来るのはそれしかない。人を滅し、家を滅し、我が身を滅ぼす。それだけだ。こんなうす汚い世の中に、糞尿に塗(まみ)れながら生き永らえるなど、まっぴら御免だ。定刻にお城に登り、定刻にお城をさがる。商人のように算盤をはじき、お上にへつらい目下の者をおどし……それがたかが栄達と金のためだ。うす汚い! それが武士のすることか! いや、武士とはいわぬ。人間たる者にそんな下劣な真似が出来るか。生きるってのは、もっと素晴らしいことなんだ。それが……それがこんなものだというんなら、いつでも棄ててやる。いつでも死んでやる!」

 火を吐くような水野の言葉を、誠一郎は深い共感を持って聴いた。身内にふつふつと滾(たぎ)るものがある。何へとはない焦燥をまぎらわすために、仰向けに寝ころんだ。降るような星空である。

                                                  (P129より)

 

吉原御免状』(隆慶一郎/著・新潮文庫)を読みました。先日、同じく隆氏の『死ぬことと見つけたり』を読んで、すっかり隆氏に惚れ込んでのことです。冒頭の引用は主人公の誠一郎が吉原で出会い、なんとなくウマがあった男、水野十郎左衞門が心情を吐露した場面である。この青臭さがなんとも良いではないですか。この熱さが良いではないですか。しかも決して浅くはないのです。それは読んでみていただければ判ります。

裏表紙の紹介文を引きます。


宮本武蔵に育てられた青年剣士・松永誠一郎は、師の遺言に従い江戸・吉原に赴く。だが、その地に着くや否や、八方からの夥しい殺気が彼を取り囲んだ。吉原には裏柳生の忍びの群れが跳梁していたのだ。彼らの狙う「神君御免状」とは何か。武蔵はなぜ彼を、この色里へ送ったのか。―吉原成立の秘話、徳川家康影武者説をも織り込んで縦横無尽に展開する、大型剣豪作家初の長編小説。


 

肥後の国の山中奥深く、彼の剣豪・宮本武蔵に育てられた松永誠一郎。彼には出生の秘密がある。武蔵の死後、遺言に従い山を下り、江戸の遊郭・吉原へと赴いた。

「ここは極楽だよ。そして地獄かな―――」謎の老人・幻斎が誠一郎を迎えたその時、吉原で何かが動き始める。自分が吉原に現れたことが引き金となり血で血を洗う暗闘が繰り広げられる。その原因と思われる「神君御免状」とは何か、自分の出生にどのような謎があるのか、何故裏柳生は自分を亡き者にしようとするのか。数々の謎に迫って行くにつれ、誠一郎は吉原誕生に隠された秘密を知ることになる。

当代随一の剣豪にして、女が放っておかぬ器量、清々しい魅力にあふれた若者誠一郎に切ない恋心を寄せる吉原きっての太夫の悲しくも切ない運命も読みどころです。

「優しいてえのは悪(わる)なんだよ。誠さんは、女に出逢うたんびに、その女のために何も彼も棄てようと思う。確かにそれが男の優しさだろう。だがね、たんびたんびそんなことをしてて、身が持ちやすか? 誠さんの身だけじゃねえんだ。女の身だって、もちゃあしねえよ」

これは作中、誠一郎を助ける謎の老人幻齋が誠一郎に言った言葉です。脆く美しい者を守る者は優しさを棄て、敵と同じくらい残忍非道にならなくてはならない。この悲しい矛盾が誠一郎の心を苛みます。まさにハードボイルド。そう、彼のチャンドラーが名作『プレイバック』の中で、探偵フィリップ・マーロウに語らせた「タフでなければ生きられない、優しくなければ生きている資格がない」という言葉と同じ命題です。