佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『青い壺』(有吉佐和子:著/文春文庫)

2024/04/26

『青い壺』(有吉佐和子:著/文春文庫)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

無名の陶芸家が生み出した美しい青磁の壷。売られ盗まれ、十余年後に作者と再会するまでに壷が映し出した数々の人生。定年退職後の虚無を味わう夫婦、戦前の上流社会を懐かしむ老婆、四十五年ぶりにスペインに帰郷する修道女、観察眼に自信を持つ美術評論家。人間の有為転変を鮮やかに描いた有吉文学の傑作。

 

 

 今日、第四金曜日は月イチの読書会「四金会」のある日。今月の課題図書が本書であった。

 有吉佐和子氏の作品を「四金会」で取り上げたのはこれが二冊目。一冊目はちょうど2年前の4月に課題図書となった『非色』。その感想などは次にリンクを貼っておく。

jhon-wells.hatenablog.com

 

 何も予備知識を持たずに読み始めた私は、第一話を読んでてっきり高名な陶芸家を父に持ち、父に追いつきたい追い越したいと思いながらもなかなか思いどおりにならない屈託を抱える陶芸家が、苦労の末に大成する物語なのかなと想像していたのだが全く違った。実は青い壺をめぐる様々な人生を描いた連作短編集であった。壺が次々といろいろな人々の手に渡っていくなかで、壺を手にした人々の人間模様が機微をうがつように描かれていく。第二話は65歳まで会社で勤め上げたサラリーマンが退職後毎日家にいるようになると、奥さんはこんなつまらない男と長い間結婚生活を続けていたのかと思い始めるという、私のような年齢の男には胸をグサッと刺されるような心持ちになるブラックな話。第三話以降も様々な人々の悲喜こもごもが、青い壺のつながりで描かれる。話の芯に据えられた青い壺は、未だ修行の途上にありなかなか満足なものを作ることができない陶芸家が焼き上げた出色の出来の砧青磁(経管の壺)である。それは誰の目にもすばらしいと映るほどの出来で、最初にその壺を目にした業者もその壺をどうしても譲ってほしいと言ったほどのものであったが、その業者はその壺に薬品を使って古色をつけてくれと言って帰った。ここに美術品の値打ちとはなにか、真贋を問うというテーマがまず提示される。陶芸家の妻が気を利かせ、古色をつけてくれと言った業者ではなく、展示販売会に出したいと申し出た百貨店業者に預ける。縁あって人々の手に渡っていくたびに、それを手放す人、手に入れる人、それぞれの眼で値打ちを測るわけだが、当然のことながらその多寡は人それぞれである。陶芸家や業者が一目で良い出来だとしたものだけに、誰の目にもそれなりに値打ちのあるものと映るのだが、それを手にした様々な人々がどれくらいの価値があると見定めるかどうかが十三話通じての注目点だろう。十三話目にして壺は陶磁器に鑑定眼を持つとある先生の手に渡っている。果たしてその先生の評価やいかに・・・それは書かずにおこう。

 以上書いたように、この連作短編集をつなぐ一本の糸は砧青磁の壺である。しかし、そこに描かれているのは、たまたまその壺に出会った者の人生模様だ。それを女流作家有吉佐和子氏ならではの洞察眼鋭く描いている。ときに女性ならではの表向きの態度とは裏腹の辛辣な心情が描かれて、男の私が読むと怖いほどだ。女流作家の小説を読むのはやはり怖い。

 怖いと言えば、JR曽根駅を降りて、「四金会」の会場を提供くださっているお宅へ向かう途中、下校するたくさんの小学生とすれ違ったときのこと。5年生か6年生らしい小学生男女二人組とすれ違ったとき、女の子の言葉がふと耳に入った。女の子曰く「○○君、女の子の大丈夫は大丈夫じゃないのよ」。おもわず私は「えっ!?」と声を上げそうになった。今時の小学生の会話はここまでハイレベルなのか。小学生にしてこの言葉を吐けるとは、女性はやはり怖い。男はとても適うものではない。