佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

春宵十話

数学の目標は真の中における調和であり、芸術の目標は美の中における調和である。どちらも調和という形で認められるという点で共通しており、そこに働いているのが情緒であるということも同じである。だから両者はふつう考えられている以上によく似ている。
                                  (本書P164より)

 

 

 

 

 『春宵十話』(岡潔・著/光文社文庫)を読みました。春の宵は桜を愛でるのもよいが、雨の日はやはり読書にいそしみたいもの。大数得学者の人生論、品格の書が心に染みました。小林秀雄氏との対談本『人間の建設』と合わせて読むとより理解が深まります。

  http://hyocom.jp/blog/blog.php?key=182579

 

 

 

 

裏表紙の紹介文を引きます。


数学は論理的な学問である、と私たちは感じている。然るに、岡潔は、大切なのは情緒であると言う。人の中心は情緒だから、それを健全に育てなければ数学もわからないのだ、と。さらに、情操を深めるために、人の成熟は遅ければ遅いほどよい、とも。
 幼児からの受験勉強、学級崩壊など昨今の教育問題にも本質的に応える普遍性。大数学者の人間論、待望の復刊 !


 

 

 


 岡潔氏は数学と美術を同じものだという。同時に数学において大切なのは情緒なのだとも。学問は頭でするものだという一般の概念に対して、氏は芸術と同じく本当は学問の中心となるのは情緒だというのだ。これはまったく逆説的であって、我々はそれをにわかには理解できない。しかし「数学をやって何になるのか」という問いに対する氏の答えを聞いたとき、不思議とそれがすうっと腑に落ち真実に違いないと判るのだ。曰く「私は春の野に咲くスミレはただスミレらしく咲いているだけでいいと思っている。咲くことがどんなによいことであろうとなかろうと、それはスミレのあずかり知らないことだ。咲いているのといないのではおのずから違うというだけのことである」と。

 余談である。本書には書いていないが世界でもっとも美しい数式について読んだことがある。たしか小川洋子氏の小説『博士の愛した数式』だったと思う。その数式は「オイラーの等式」。これですね。
  e + 1 = 0

    e : ネイピア数、すなわち自然対数の底
    i : 虚数単位、すなわち2乗すると -1 となる複素数
    π : 円周率、すなわち円の直径と円周の比

 

  よくはわからないのですが、それぞれ違う時代に確立された自然対数の底 e と、虚数単位 i と、円周率 π で構成された数式が最も基本的な体 0 と 1 に帰結するという事実に、宇宙全体を調和させ統合する神の存在を感じるのは私だけではないはず。


(記憶しておきたいセンテンス)


太平洋戦争が始まったとき、私はその知らせを北海道で聞いた。その時とっさに、日本は滅びると思った。そうして戦時中はずっと研究の中に、つまり理性の世界に閉じこもって暮らした。
ところが、戦争がすんでみると、負けたけれども国は滅びなかった。その代わり、これまで死なばもろともと誓い合っていた日本人どうしが、われがちにと食糧の奪い合いを始め、人の心はすさみ果てた。私にはこれがどうしても見ていられなくなり、自分の研究に閉じこもるという逃避の仕方ができなくなって救いを求めるようになった。
                                                (P56)


ぼくは計算も論理もない数学をしてみたいと思っている。
                                                (P76)


いまの教育では個人の幸福が目標になっている。人生の目標がこれだから、さあそれをやれといえば、道着というかんじんなものを教えないで手を抜いているのだから、まことに簡単にできる。いまの教育はまさにそれをやっている。それ以外には、犬を仕込むように、主人に嫌われないための行儀と、食べていくための芸を仕込んでいるというだけである。しかし、個人の幸福は、つまるところは動物性の満足にほかならない。生まれて六十日目ぐらいの赤ん坊ですでに「見る目」と「見える目」の二つの目が備わるが、この「見る目」の主人公は本能である。そうして人は、この本能を自分だと思い違いをするのである。そこでこのくにでは、昔から多くの人たちが口々にこのことを戒めているのである。私はこのくにに新しく来た人たちに聞きたい。「あなた方は、このくにの国民の一人一人が取り去りかねて困っているこの本能に、基本的人権とやらを与えようというのですか」と。私にはいまの教育が心配でならないのである。
                                                 (P83) 


いまの学生で目につくことは、非常におごりたかぶっているということである。もう少し頭が低くならなければ人のいうことはわかるまいと思う。謙虚でなければ自分より高い水準の物ものは決してわからない。せいぜい同じ水準か、多分それよりも下のものしかわからない。それは教育の根本原理の一つである。
                                                 (P103)


私は日教組の先生たちのやり方に疑問を持っている。団体交渉などといって集団的に行動し、しかも怒りの気持を含めている。人というものが怒っているときに正常な判断を下せるかどうか、だれにでもわかるはずだ。あんな気持を教室にまで持って帰られてはたまらない。
                                                 (P105)


なぜ三つのSがいけないのかというと、シネマは外の物が感覚から入って人の感情を支配する。つまり外から心の鼻づらを引き回されるのがうれしいという気持になるからである。セックスは、人の高尚なものは大脳の上の部分にあるのに、下の部分ばかり働くからである。またスポーツは、知覚作用がよく働かねばならないのに、運動作用がよく働くことになるからである。だから三つとも方向が反対なのであって、これだけ三つを流行させれば知的にはほどんど無力になると決まっている。
                                                  (P112)


国家が義務教育と並んで力を入れるべきものとして天才教育があると思う。……(中略)…… 大多数の人の頭がいくら教育してもコピーしか作れない以上は、少数を選び出して天分を発揮させるほかはないのである。いまこそ独創がどんなに大切か、わかっているのだろうか。少なくとも義務教育の現状はとうてい独自の見解などは期待できないありさまである。
                                              (P148-P149)


漱石といえばまた、朝日新聞に入社した当初だったと思うが、次のように獅子吼したことを想い出す。
「自分の小説は少なくとも諸君の家庭に悪趣味を持ち込むようなことだけはしない」
これを初めて読んだときは、平凡なことをいう人だと思っていたが、それがどんなに大切なことかだんだんわかってきた。
                                                 (P175)


 

 

(最後に)
  岡潔氏が戦後の日本を、戦後の教育を、戦後の日本人の心のあり方を憂え、その後に来る日本の未来を心から心配していらっしゃったのが真摯に伝わってきた。文章は毎日新聞の記者に口述する形で綴られたため、推敲に推敲を重ねたものと違い決して美しいとは云えない。しかし、その語り口から氏の想いが直に心に響いてきた。氏が憂えたとおりのこの国の現状をみるにつけ、この本が出版された1969年当時に、国が、文部省が、そして日教組を煽動していた組合幹部に氏の想いが伝わらなかったのは残念としかいいようがない。それだけに、いったんは休刊になった本書を復刊して下さった株式会社光文社の英断を讃えたい。

 

(追伸として)
  岡先生には失礼ながら、一つだけ茶々を入れさせていただきます。三つのSについてのくだりですが、シネマは「S」ではなく、やはり「C」だと思います。しかし、仰ることはまことに的を射ており、昨今の「スポーツさえしていれば健全な心身が養われる」といったスポーツ信奉単純軽薄バカ論に異議を唱えていらっしゃったご慧眼には感服いたしております。ご無礼の段、お許しくださいませ。(笑)