佐々陽太朗の日記

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『100万分の1回のねこ』(江國香織・他:著/講談社文庫)

『100万分の1回のねこ』(江國香織・他:著/講談社文庫)を読みました。

 まずは出版社の紹介文を引きます。

佐野洋子の絵本『100万回生きたねこ』は、一九七七年に発売されて以来、今なお多くの人に読まれ続けている大ロングセラー。本書は、江國香織谷川俊太郎をはじめとする十三人の作家や挿絵画家が、佐野洋子とこの絵本に敬意を込めて書き上げた短篇集。愛と死、生きることについて深く考えさせられる。

 

江國香織「生きる気まんまんだった女の子の話」
岩瀬成子「竹」
くどうなおこ「インタビューあんたねこ」
井上荒野「ある古本屋の妻の話」
角田光代「おかあさんのところにやってきた猫」
町田康「百万円もらった男」
今江祥智「三月十三日の夜」
唯野未歩子あにいもうと
山田詠美「100万回殺したいハニー、スウィートダーリン」
綿矢りさ「黒ねこ」
川上弘美「幕間」
広瀬弦「博士とねこ」
谷川俊太郎「虎白カップル譚」

 

 

”『100万回生きたねこ』は、佐野洋子の見果てぬ夢であった。それはこれからも、誰もの見果てぬ夢であり続ける。” これは谷川俊太郎が本篇に寄せた「虎白カップル譚」の前段に書いたことばです。流石です。ひと言で佐野洋子氏の『100万回生きたねこ』とはなにかを言い当てている。もちろん言い尽くせているわけではない。詩人らしくそれが持つ表情を、それももっとも本質的な表情をうまく表現なさっている。

 翻って私が以前「ひょこむ」というSNSでブログに『100万回生きたねこ』について書いたのは、非常な長文であった。5年ほど前のことであった。汗顔の至りだが、それを引用する。

 もしも私がこの本を一〇代、二〇代、三〇代、四〇代と繰り返し読んできたとしたら、その都度、感じ方や解釈が違っていただろうという気がしている。しかし、私は今、既に五四歳であり、この年齢にして初読である。そしてあとは六〇代、七〇代、八〇代と命があれば再読してみるしかないのだ。残念だが人生は繰り返せない。物語に登場するねこは100万回死んで100万回生きた。しかし私は一度しか生きられない。

 さて、感想です。

 このねこは100万回死んで100万回生きた。つまり死ねなかったということですね。どうして死ねないのか? 本当に自分が愛するものを見つけるため? 判らない。そしてねこは一度も泣いたことがない。泣けないのです。何度でもやり直せる人生(いや猫生というべきか)。取り返しがつかないことなんてない。何度でもやり直せるから、ほんとうに大切なもの(無くして困るもの)なんておそらく何もなかったのでしょう。

 そして、100万回生きたねこはのらねこになって初めて自分のことが好きになった。それまではずっと誰かのものだった。誰かのものだったうちは、自分のことを好きになることもなかった。のらねこになってはじめて、ねこは自分のねこになったのです。

 自分が自分になってはじめてねこは恋をする。これまで自分以外を愛することができなかったねこが初めて他のねこを愛するようになる。しかし白いねこは誰もと同じようにいつかは死ぬ定め。愛する白いねこが死んで初めてねこは泣く。いつまでも泣き続け、やがて静かに死んでいく。そして100万回生きたねこは、もう決して生き返らなかった。

 100万回生きたねこは何故泣いたのか? かけがえのない愛する者が死んでしまったから? もちろんそうでしょう。でも私はその涙は、これまで100万回も死んできたときに、飼い主が泣いたことの意味がはじめて判ったからではないかとも思うのです。さらに100万回死んで100万回生き返ったねこはなぜ決して生き返らなかったのか? 本当に愛する者に巡り会えたからか。そうかもしれない。私が考える理由はこうです。白いねこと寄り添って暮らした人生(いや猫生というべきか、ええいややこしい)は100万回生きたねこにとって最高のものだった。その最高のものを作者・佐野洋子さんがそのままにしておいてやりたかったのではないかと思うのです。それでこそ100万回生きたねこに救いがあると思うのです。私は最後の一文「ねこは もう、 けっして 生きかえりませんでした」を読んだとき、なぜかかわいそうとは思いませんでした。むしろほっとしました。よかったとさえ思いました。ねこが死んでしまったにもかかわらずです。おそらくそれは100万回も死んで100万回も生きるという死ねないねこに、白いねことの思い出とともに終止符を打ってあげた作者のやさしさに触れたからだと思います。

 すこし泣いてしまいました。

 さて本書は佐野洋子100万回生きたねこ』への、13人の作家によるトリビュート短篇集です。私のお気に入りは江國香織「生きる気まんまんだった女の子の話」、井上荒野「ある古本屋の妻の話」、角田光代「おかあさんのところにやってきた猫」といったところ。それぞれ”人を愛することとはなにか”についてひとつの答えに到達していると思えるからである。久しぶりに『100万回生きたねこ』の頁を開いてみたくなった。

 本署に着いていた猫が描かれたカードが栞としてちょうどよく、かわいいものでした。