佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『華氏451度_新訳版』(レイ・ブラッドベリ:著/伊藤典夫:訳/ハヤカワ文庫)

2021/06/23

『華氏451度_新訳版』(レイ・ブラッドベリ:著/伊藤典夫:訳/ハヤカワ文庫)を読んだ。

 出版社の紹介文を引く。

華氏451度―この温度で書物の紙は引火し、そして燃える。451と刻印されたヘルメットをかぶり、昇火器の炎で隠匿されていた書物を焼き尽くす男たち。モンターグも自らの仕事に誇りを持つ、そうした昇火士のひとりだった。だがある晩、風変わりな少女とであってから、彼の人生は劇的に変わってゆく…。本が忌むべき禁制品となった未来を舞台に、SF界きっての抒情詩人が現代文明を鋭く風刺した不朽の名作、新訳で登場!

 

 

 『華氏451度』(Fahrenheit 451)というのは本(紙)が燃え始める温度。

 本の所持が禁止され、発見された本は昇火士(fireman)によって焼却され、所持者は犯罪者として逮捕されるという未来社会を描いたディストピア小説である。情報は全てテレビやラジオによる画像や音声などの感覚的なものばかりの社会。本には何ら有用な情報は無く、善良な市民に有害なもので、本からもたらされる思想が社会の秩序と安寧が損なうというのだ。そこでは市民が相互監視する社会が形成され、密告が奨励される。体制が発信する情報だけが正しく、それに反抗することはおろか疑問を抱くことも許されない社会に人びとは飼い慣らされ、自分の頭で思考することを忘れ愚民化している社会が薄気味悪い。

 物語は模範的な昇火士である主人公(ガイ・モンターグ)が、ある日クラリスという女性と知り合い、彼女との交友を通じて、自分が正義と考えていたことに疑問を抱き始めるかたちで展開する。ガイは仕事の現場から内緒で持ち帰った数々の本を読み始め、社会に対する疑問が高まる。そうしたガイの行動は体制の知るところとなり追われる身となっていく。以上があらすじだ。

 本書が上梓されたのは1953年。アメリカでは共産主義者の追放(マッカーシズム)が行われた頃である。日本でも戦後占領下にあってレッドパージがあった時期。著者ブラッドベリ共産主義者では無いようだが、そうした動きに危うさを感じてこの小説を書いたのかもしれない。

 現在の社会で表だった焚書は無い。むしろネットによってあらゆる情報が垂れ流される情報過多の様相を呈する。しかし進歩的な人間を自認するオピニオンリーダーとそれに続く良識派(?)の人びとが、彼らと考えを異にする人を言論で袋だたきにし、社会から抹殺してしまうほどの苛烈な言動をおこすことに危うさを感じるのは私だけだろうか。例えば反核・反原発、あるいはLGBTジェンダー、反捕鯨などの問題について、たびたび世間がざわつく。そうした問題について、最近中心となっている考え方は、これまでの歴史の中で考察が重ねられ、様々な反省の末に導き出された正しい考えかもしれない。私はそれを否定するものではない。しかしそうした考えもやはり歴史の通過点であって、時代が変わり、社会情勢が変わればまた別の考えもあり得るのだろう。正義は堂々と語るべきだが、正義を振りかざすことには一種の危うさがある。大切なことは盲信に陥ることなく常に考え続けること。異質なものへの一定の許容だろう。

「我思う、故に我在り」デカルトの方法的懐疑の概念は常に心に留めておきたい。

 本書の中で覚えておきたい言葉を記しておく。

「わたしは事実については話さんのだよ。事実の意味こそ話す。私はここにすわっている。だから自分は生きているとわかるのだ」

(カレッジの老教授、モンターグが追われる身となってからの協力者であるフェーバーの言葉)

 

「書物は、われわれが忘れるのではないかと危惧する大量のものを蓄えておく容器のひとつのかたちにすぎん。書物には魔術的なところなど微塵もない。魔術は、書物が語る内容にのみ存在する」

(同じくフェーバーの言葉)

 

「ただ芝を刈るだけの人間と、庭師とのちがいは、ものにどうふれるかのちがいだ」

(体制の干渉から逃れ、都市の外で暮らすグレンジャーという男の言葉)

 

「十秒後には死んでしまうつもりで生きろ」

(同じくグレンジャーの言葉)

 

 本書を読むのに併せ、映画も観た。1966年のイギリス映画は今となってはちゃっちいセットが笑える。また2018年のアメリカでテレビ映画としてリメイクされたものは主人公(ガイ・モンターグ)が黒人俳優となっている。そうした配慮も必要な時代なのかな。

 

 

 

華氏451(2018)(字幕版)

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