佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

ハナビ

 待ってもらえる? と言われてから、わたしはたびたび怖い夢を見るようになってしまった。一方、富田正樹はやけに元気で、こまめにメールをしてくる。ついに厚焼き玉子を担当させてもらったとか、オムライスがおいしく作れたとか、靴下の穴がとうとう指三本分になったとか、百円を道端で拾ったとか、百円を自販機の下に落としたとか、そんな内容ばかり。富田正樹は決してわたしを放っておかない。そしてほったらかしだ。
                                  (本書P163より抜粋)

 

 

『ハナビ』(中居真麻・著/宝島社)を読みました。

 

 

出版社の紹介文を引きます。


日本ラブストーリー大賞選考委員が、その圧倒的な才能に驚愕した本作。惜しくも受賞は逃したものの、選考委員の熱烈な支持により、2年越しの改稿でついにデビューが決定! 三人姉妹の末っ子若歌子は、19のときに家を出て、4年ぶりに戻ってきた。仕事もやめて帰ってきた若歌子は、不眠症まがいの「マカユメ生活」をおくる。友人に紹介された正樹との新しい恋もはじまった。でも若歌子には忘れられない過去があった――。



 高校生の頃、好きだったのは同級生のハナビという名のオトコ。好きになったのに理由など無い。いや理由はあったのかもしれないがそれが何なのかは判然としない。理屈ではない何か、圧倒的な魅力に魅せられたのだ。何度ハナビの自分勝手な振る舞いに振り回され、自分の想いが届かないことに涙しても彼の呪縛からは逃れられなかった。一方、ようやくハナビの呪縛が弱まった二三歳になって出会ったマサキ。若歌子はマサキに惹かれるが、それはハナビに感じた種類の感情ではない。そのことが若歌子を戸惑わせる。ハナビの持っていないモノをマサキは持っている。しかし同時にハナビが持っているモノをマサキは持っていない。マサキの若歌子に対する接し方はどこまでも優しく穏やかだ。歳はハナビより若いが常識的で大人の接し方だ。作中にある「富田正樹は決してわたしを放っておかない。そしてほったらかしだ」という表現はハナビの若歌子に対する接し方との対照を見事に表現していると思う。若歌子はけっしてハナビにほったらかされているとは感じないのだ。それは若歌子がハナビの呪縛から逃れ切れていないことに他ならない。
 最終的に若歌子とマサキは結ばれる。仮にハナビへの想いを「恋」、マサキへの想いを「愛」と表現するならば、若歌子が「恋に恋する」思春期の想いから脱皮して、ありのままの実態をふまえて目の前の人を愛する大人へと成長したという解釈も成り立とう。しかし、この小説をそういう風にかたづけてよいのだろうか。この小説の中で若歌子の父・セーイチがタンス屋の娘に恋して家を出るというエピソードが語られる。セーイチは五二歳である。若歌子の母はそれを「いいんじゃない」と恬淡としていう。達観しているのだ。ちなみに若歌子の母は嘗て一度だけ本気の本気で恋愛したことがあるという。それはセーイチではない。非常に興味深い。およそ人の感情を「恋」だの「愛」だの括っても仕方がないのだ。その感情は抱こうと思って湧いてきたものではなく、気付いた瞬間には自分の中に在るものなのだから。それはどちらがよくて、どちらがわるいといった性質のものではない。ましてどうあらねばならぬというものでもない。ただ、そういうものなのだと。そうすると、人は様々な人と出会い、様々な運命の中でたゆとうものなのだ。若歌子の母は言う。「いいじゃない。セーイチにはセーイチの人生があるんでしょうに」と。よし、それならば私も森見登美彦氏風にいわせていただこう。「それもまたよし」と。

 余談であるが、著者の中居真麻氏は姫路市内の書肆にいらっしゃる。この本を買い求めたのもそこである。こころよくサインもして下さいました。近く、今春刊行の最新刊『恋なんて贅沢が私に落ちてくるのだろうか?』を買いに行くつもりです。こちらはみごと第六回日本ラブストーリー大賞を受賞された作品のようです。また、お会いしてお話ができるかもしれません。もし、お会いできたら尋ねてみたい質問がふたつあります。ひとつは「川上弘美さんがお好きですか?」。もうひとつは「モディリアーニの画がお好きなのですか?」。どうでもよい質問ですけれど。