佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『レインツリーの国』(有川浩・著/新潮文庫)

「この前、小説読んだの。恋愛小説。そのはじまり方が面白くて。恋のきっかけがライトノベルなの」

ライトノベル?」

「そう、ヒロインが一〇年前、高校生の頃に読んだライトノベルの感想をネットに書いて、それを読んだ主人公がメールを送って、それがきっかけで恋に発展していくの。すごく優しくて、いいお話。(中略)」

                         ―――山本弘『詩羽のいる街』(角川書店

                                         (本書P230「解説」より引用)

 

レインツリーの国 (新潮文庫)

レインツリーの国 (新潮文庫)

  • 作者:浩, 有川
  • 発売日: 2009/06/27
  • メディア: 文庫
 

 

レインツリーの国』(有川浩・著/新潮文庫)を読みました。

 

 ”レインツリー”という言葉を聞くと、私は恥ずかしくなります。彼のノーベル文学賞受賞作家の『「雨の木」を聴く女たち』を連想するからです。私は一時期、大江健三郎氏の小説を読み漁ったことがあります。高校を卒業し、大学に入学した頃から会社勤めをし、結婚し、子供が生まれた頃までのことです。たくさん読みました。今でも私の本棚に新潮文庫の茶色い表紙がずらりと列んでいます。『「雨の木」を聴く女たち』を読んだのは一九八六年のことです。いっぱしの知識人気取りだったのですねぇ。なんだかわけのわからない文章をありがたがって読んでいました。本当はさっぱり分からないのに分かった振りをして。分かりやすい小説を低俗で価値のないものと決めつけ、分からないものほど高尚で深遠なものだと信じて疑わなかったのです。いまふり返っても『「雨の木」を聴く女たち』がどんな物語だったのか、さっぱり思い出せません。微かにおぼえているのはやたら”メタファー”という言葉が出てきたと云うことだけです。いや、それも定かではなく、記憶違いかもしれないという気がするほどです。恥ずかしいことです。その後、三〇年近く生き、いろいろな本を読んできてやっと分かりました。大江健三郎氏の小説など私にとって何の価値もないのだと。小説にとって最も大切なのは読者がその物語の世界に入りこみ、ドキドキわくわくし、作者の伝えたかったことを受け止め、かみ締め、あじわうことなのだと。本当はさっぱり分からなくて、読むのが苦痛でしかたがないのに、それを認めると自分がバカだと認めてしまう気がして、賢しらに自分はこの小説の良さが分かっていると無理矢理思いこもうとしていました。返す返すも恥ずかしいことです。私は大江健三郎氏の小説に価値がないと断じている訳ではないのです。ノーベル賞を受賞されるほどの方です。素晴らしいに違いないのです。ただ、私にはその良さが分からないだけです。

 さて、前置きが長くなりました。有川浩氏の『レインツリーの国』です。冒頭に引用したのは山本弘氏の小説の一節ですが、これはこの小説『レインツリーの国』についての会話です。そうです、『レインツリーの国』はライトノベルにカテゴライズされる小説です。ノーベル文学賞の選考などとは全く無縁の小説です。しかも、関西弁の話し言葉で書かれています。主人公の男が関西出身で、若い二人のメールのやりとりで話が進んでいくためですが、それにしても関西弁の小説って云うのは読みにくい、バタ臭い、美しくない。そのあたり、マイナスポイントながら、物語にはどんどん引き込まれてしまう魅力に溢れています。

 

まずは裏表紙の紹介文を引きます。


 

きっかけは「忘れられない本」。そこから始まったメールの交換。共通の趣味を持つ二人が接近するのに、それほど時間はかからなかった。まして、ネット内時間は流れが速い。僕は、あっという間に、どうしても彼女に会いたいと思うようになっていた。だが、彼女はどうしても会えないと言う。かたくなに会うのを拒む彼女には、そう主張せざるを得ない、ある理由があった―。


 

 

 本がきっかけで知り合い、その人と自分と考えが合うことが判る。やがてその人を好きになる。その人のためになにかをしてあげたくなる。その人のための苦労が嬉しいと思うようになる。素敵なことじゃないですか。人を好きになるというただそれだけのことで、世界は昨日とは変わる。幸せがそこにある。人生はすばらしい。

 本好きにとって、図書館や古書店など本にまつわるきっかけで恋人と巡り合うというシチュエーションは一度は夢想した経験があるのではないでしょうか。本作では昔読んだ本の書評がきっかけになっています。それをネット上で読んだ主人公が共感しメールを送ることが恋の始まりになっています。この出会いはひょっとしたら著者・有川浩氏の理想と考えるパターンなのかもしれません。つまり、通常の出会いにおいては丸顔か細面か、タヌキ目かキツネ目か、ロングヘアーかショートヘアーか、黒髪か茶髪か、服装はトラッドかカジュアルか、はたまたパンクか、メガネをかけているかどうか、色白か色黒か、やせ型かぽっちゃり型か、胸は大きいのかそうでないのか、どんな声かなどなど、要するにその人の容姿にかかわる情報を一瞬にして大量にインプットすることになる。その人の人となりが好きだといっても、容姿によるバイアスが少なからずかかることはやむを得ないところだろう。ところがそれがネット上で知り合う場合、容姿に関する情報が一切ない状態で、それこそ純粋にその人の書いた文章からその人の考え方や価値観を知り、それに共感したり感心したりすることによって、その人を好きになったり尊敬したりすることになる。(もちろん、ネット上に書き込まれたことがその人の本心であるという保障なないのだが) つまり、有川氏は「女性の容姿じゃなく、頭の中を見てよね」と言っている気がするのだ。加えて有川氏は主人公となる女性に聴覚障害というハンデキャップを背負させている。これも通常の出会いであれば、それこそ相手を恋愛対象として見るうえで障害となりかねない。そうした恋愛をする上での障害をネットという環境の中で取り除いてしまい、純粋に共通の価値観で接点を持った二人が、それ以外の属人的要素(聴覚障害があること、素材は悪くないが見た目が野暮ったい、理屈っぽくややこしいともいえる性格)をどのように乗り越えていくかという物語に仕立てている。これはシンデレラの変形といえるでしょう。「白馬の王子様がどこからか現れて、迷える女の子である自分を救ってくれる」というあれです。このパターンは恋愛ものの古典的パターンであり、いつの時代にも支持される最強のパターンでもあります。「ジェーン・エア」「愛と青春の旅立ち」「プリティ・ウーマン」「花より男子」などなど枚挙にいとまないのだ。この最強の古典パターンを踏襲し、しかも、ネット上での出会いというシチュエーションを作り上げるところにストーリーテラーとしての有川浩氏の凄さとしたたかさを感じた次第。