佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『ビブリア古書堂の事件手帖3 ~栞子さんと消えない絆~』(三上延・著/メディアワークス文庫)

「ただね、父もわたしも、状態の悪い方の『春と修羅』に愛着があったの。いかにもあの本を愛した人たちの手を経てきたようで・・・・古書としての価値には関係なく、わたしたちにとっては大切な一冊だった」
 俺には共感できる言葉だった。以前栞子さんが言っていたように、古い本には本そのものにも物語がある。
                               (本書P220より)

 

 

ビブリア古書堂の事件手帖3 ~栞子さんと消えない絆~』(三上延・著/メディアワークス文庫)を読みました。

 

 

 


まずは裏表紙の紹介文を引きます。


鎌倉の片隅にあるビブリア古書堂は、その佇まいに似合わず様々な客が訪れる。すっかり常連の賑やかなあの人や、困惑するような珍客も。人々は懐かしい本に想いを込める。それらは予期せぬ人と人の絆を表出させることも。美しき女店主は頁をめくるように、古書に秘められたその「言葉」を読みとっていく。彼女と無骨な青年店員が、その妙なる絆を目の当たりにしたとき思うのは?絆はとても近いところにもあるのかもしれない―。これは“古書と絆”の物語。


 

 

 いいですねぇ。「軽い」とか「薄い」とか悪口雑言が聞こえてくることもありますが、私はそれに異議を唱えたい。「軽い」か? 確かに軽い。三百頁たらずの文庫本です。集中すれば二時間もあれば読み切ります。発行所は「アスキー・メディアワークス」。「あぁ、ラノベか」といった誹りが聞こえてきそうな気がします。しかし、それがどうした。ライト・ノベルの中にも光るものはある。一方、ノーベル文学賞を獲るような作家の小説にも実にくだらないものもある。決して薄くはないのだ。むしろ、深刻ぶって「私は現在の世のあり方について、こんなに深く憂えているのですよ」と言わんばかりに、必要以上に文章をこねくり回し、結局は薄っぺらな考え(薄っぺらならまだ良いのだが、全く心得違いの考え)をくどくどと、メタファーなどという技巧で化粧した文を弄する輩が、周りから先生、先生と祭り上げられ、あろうことか本人もすっかりその気になっているといった様を私は深く憂えているのです! ん? 少々云いすぎたかな? すまぬ。すまぬ。 しかし、わたくしはこれだけはいいたい!!! 言葉が難解なのはともかくとして、文章が分かりにくいのは、その書き手が下手なのだと。読者に伝えたいことを伝えられるだけの筆力が書き手に無いのだと。分かるヤツにだけ分かればよいのだと思っているのだとすれば、もはやそれは文学ではなくカルトだと。
 この小説には本を愛する人の気持ちが溢れています。今も昔も、本はそのような本を愛する読み手に支えられてきました。書き手の独りよがりでは本は存在し得ません。たとえば偶然、あるいは何らかの運命によって『たんぽぽ娘』という短編小説に出会い、その作品世界に惚れ込み、それを人に伝えたくなる。大切な人が結婚するときに、その本を送りたくなる。素敵な事じゃないですか。その時、本そのものに物語が生まれるのです。そして、その本が人生に味わいを与えてくれる。幸せを運んでくれる。本というのは、書き手の、そして読み手の想いなのです。
 ちなみに『たんぽぽ娘』は本書第一話の鍵となる小説で、ロバート・F・ヤングによって1960年に発表されたものです。創元推理文庫から出版された『年間SF傑作選2』は絶版。集英社コバルトシリーズで出版された『たんぽぽ娘―海外ロマンチックSF傑作選2』も絶版という。唯一、文藝春秋編のアンソロジー「人間の情景」シリーズ全8巻の第6巻に『奇妙なはなし』というのがあって、このアンソロジーに収録されているらしいので amazon で調べると「現在お取り扱いできません」となっている。河出書房新社から刊行予定のウワサがあり、これに期待するしか無いのかも知れない。いつか巡り会いたいという想いを持って古書店を巡っていると、いつの日にかひっそりと安く本棚に並んでいるかもしれない。そう思いながら古書店を訪れるのもこの小説の与えてくれた楽しみのひとつだろう。