佐々陽太朗の日記

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『一夢庵風流記』(隆慶一郎・著/集英社文庫)

『時に時に霖(ながあめ)ふる。素戔鳴尊(すさのおのみこと)青草を結ひ束ねて、笠簑(みのかさ)と為し、宿を衆神(がみがみ)に乞ふ。衆神の曰(まう)さく、汝は此れ躬(み)の行(わざ)濁悪(けがらは)しくして逐(やらひ)謫(せ)めらるる者なり、如何ぞ宿を我に乞ふぞといひて、遂に同(とも)に距(ふせ)ぐ。是を以て風雨甚(はなはだ)しと雖(いへど)も、留(とどま)り休むこと得ず、辛苦(たしな)みつつ降(くだ)りき。』(日本書紀

 

 私はこの『辛苦みつつ降りき』という言葉が好きだ。学者はここに人間のために苦悩する神、墜ちた神の姿を見るが、私は単に一箇の真の男の姿を見る。それで満足である。『辛苦みつつ降』ることも出来ない奴が、何が男かと思う。そして数多くの『傾気者(かぶきもの)』たちは、素戔嗚尊を知ると知らざるとに拘らず、揃って一言半句の苦情も云うことなく、霖(ながあめ)の中を『辛苦みつつ降』っていった男たちだったように思う。

 

                                         (本書P12-P13より)

 

 

 『一夢庵風流記』(隆慶一郎・著/集英社文庫)を読みました。敬愛する隆慶一郎氏の御著書の中でも『死ぬことと見つけたり』と双んで氏の死生観が遺憾なく表された小説だと思います。

 

 まずは出版社の紹介文を引きます。


死ぬも生きるも運まかせ。たった一騎で戦場に斬り込み、朱柄の槍を振り回す―。戦国時代末期、無類のいくさ人として、また、茶の湯を好む風流人として、何よりもまた「天下のかぶき者」として知られた男、前田慶次郎。乱世を風に舞う花びらのように、美しく自由に生きたその一生を描く、第2回柴田錬三郎賞受賞の話題作。


 

一夢庵風流記 (新潮文庫)

一夢庵風流記 (新潮文庫)

 

  

 酔いしれましたよ。いいなぁ。私の好きな重松清氏の短編『シド・ヴィシャスから遠く離れて』に「パンクは生き方じゃない、死に方だ」というくだりがあります。パンクを傾奇者に置き換えてみると妙にしっくりする。薄汚く生きるくらいなら美しく死ぬ。そうすることでこそ人の記憶の中で美しく生き続けることができるのである。であるから日々を死に様を考えて生きるのだ。にわかの死を覚悟して生きるのであれば、たとえば褌は己の心のように真っさらで輝くような白であらねばならないとする。

 この物語の主人公、前田慶次郎は美しい死を心の底から欲している。しかし慶次郎の類い希な強さはそれを許さない。死を欲しても生き残ってしまう男の美学、それは滅びの美学であろう。勝つ側に味方するなどと薄みっともないことはしない。それ故、死はいつも己のとなりにある。辛苦(たしな)みつつ降(くだ)る男は美しい。

 

記憶にとどめておくため、本書の中でお気に入りの記述を記しておく。


 

(P27)

「俺も鉄砲は嫌いだよ」

 慶次郎も頷きながら云う。

「あれは何となく卑怯な気がしてね。けどこれからはどんどん鉄砲の世の中になるな。」


 

(P36)

「虎や狼が日々錬磨などするかね」

 と云うのがこの男の口癖だった。

「そんな真似はしなくても、強い者は強いんだ。刀槍(とうそう)の錬磨をする暇があったら、もっと楽しいことをするよ」

 一種の暴言だが、いくら兵法者が歯ぎしりしても、実践の場で慶次郎に勝てないのだから仕方がなかった。


 

(P149)

外はどんな綺羅を飾ろうと、逆にどんな襤褸(ぼろ)をまとおうと構いはしない。だが褌は男の最後の着衣ではないか。それだけは己の心のように、まっさらで、輝くような白であるべきだ。


 

(P198)

一騎駆けは戦場の花である。だがこの花を見事咲かせては敵方の面目は丸つぶれになる。忽ち鉄砲の一斉射撃が慶次郎に集中した。だが一発も当たらない。松風の余りの迅さに距離の測定を誤るのであり、余りに無法な『いくさ人』を天が別して愛するからである。


 

(P207)

「俺は一度信じた男は斬らぬ」


 

(P250)

 兼続はほっと息をついたが、何とも云えぬ羨望で体が震えた。

<この男のように生きられたら・・・・・・>

 腹の底からそう思ったのだ。

 慶次郎にとって人生は簡単であろう。好きな時に寝、好きな時に起き、好きなことだけをして死ぬだけである。誰もが望み誰もが果たせない生きざまだった。何故誰にも出来ないか。一切の欲を切り捨てなければならないからだ。あらゆる欲とあらゆる見栄を棄て去り、己の生きざまだけに忠実にならなければ慶次郎のようには生きられない。

 それだけではなかった。慶次郎のように生きるには天賦の才能が必要だった。文武両道にわたる才であり、中でも生き抜く上での才である。或はこれを運と云うことが出来よう。運の良さも明らかに才能の一つである。

<天に愛されている>

 慶次郎を見ていると兼続はつくづくそう思う。そして、

<天は不公平だ>

 そうも思う。だが天に向かって文句を云うわけにもゆかないではないか。


(P355)

「王道楽土は国として最高の贅沢だろうと云うのさ。だからいつか滅びざるを得ない。だがたとえ滅びても贅沢は素晴らしいとも云える」


(P356)

慶次郎にとって、奴婢は意味を持たない。人はあくまで人である。男なら『いくさ人』であるかないかだけが問題であり、女なら惚れるか惚れないかだけが問題だった。


 

(P363)

「滅びることは美しいかな」

「滅びたものは美しいが、滅びるものは無残でしょう」


(P442)

 いくさと自分とどっちが大事か、などと云う愚劣なことを伽子は云わない。これはいわば次元の違うものなのだ。生死を賭した戦場は、男にとっては最高の生き場所であり、死に場所であろう。世のどんな倖せも愉楽も、それに替わることは出来まい。


(P476)

会津かね」

 慶次郎が訊く。

「ほかに行く所があるか」

 と道及。もう三杯目だった。

「負けるぞ」

「そこがいい。わしは負けいくさが好きだ。お主もそうだろう」

「まあな」

 二人揃ってにたりと笑った。『いくさ人』の頼もしさが充分に発揮されるのは、負けいくさの方が多いのである。それに勝つ側に味方するなんて薄みっともないことなぞ、男として出来るわけがない。


(P508)

「わしはしくじれば死ぬ。お手前のように生きて文句をつけたりはしない」


(P524)

 敗者の記録は勝者によって消され、あるいは書き変えられるのが歴史の常である。だから敗者に属して、しかも僅かでも名を残す者は人並みはずれてすぐれた人間に限る。前田慶次郎はその数少ない男の一人だった。

 しかもこの男『かぶき者』である。別のいい方をすれば『バサラ』だった。『かぶき者』『ばさら』は、時の権力に逆らうことをもってその生存理由とする。そして権力に逆らって尚かつ生き延びるためには、格別の力を必要とするのは自明の理であろう。しかもこの力は何の役にも立たないものなのだ。所詮無益な力なのだ。だがそこがいい。