佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『おひで 慶次郎縁側日記』(北原亞以子:著/新潮文庫)

2023/09/19

『おひで 慶次郎縁側日記』(北原亞以子:著/新潮文庫)を読んだ。慶次郎縁側日記シリーズ第三弾である。

 まずは出版社の紹介文を引く。

深傷を負って慶次郎のもとに引き取られた娘・おひで。惚れた男にも捨てられてやけっぱちになっていたおひでも、優しくいたわってくれる下働きの佐七には心を開くようになるが、そのとき再び凶刃が振り下ろされた…。行き場のない人間のせつない思いを、温かく受け止める慶次郎、そして晃之助や玄庵たち。お馴染みの山口屋の寮を舞台に展開する人情捕物帖。大人気シリーズ第三弾。

 

 

 巻末に作者・北原亞以子氏と故・児玉清氏の対談がある。自他共に認める読書好きの児玉氏との対談だけに読み応えがあり楽しい。そのやりとりの中で児玉氏が森口慶次郎という人物を書く動機は何だったのかと尋ねると、北原氏は理想の男性であると、周りにいなかったので自分で書いちゃえと思ったと述べていらっしゃる。確かに、慶次郎愛が溢れている。決してスーパーマンではない(つまり現実にいそうだ)が強い。そして大げさに態度に出さないが、実は自分に厳しい男である。けっして強さや格好良さをひけらかしはしないが、そこはかとなくそしてじんわりとそれが感じられる人物なのだ。実に魅力的だ。魅力的といえば慶次郎の跡取りとして養子に入った晃之助もまた負けてはいない。晃之助は慶次郎の今は亡きひとり娘の婿になるはずだった男である。ひとり娘が事情があり自刃を遂げた後もそのまま婿に入り、外から嫁をもらっている。たいていの女は晃之助を一目見ただけでときめいてしまうほど眉目秀麗で、人柄もまた非の打ち所がない男だ。なるほど、北原氏はこのシリーズを楽しんで書かれた様子である。

 慶次郎は元定町廻り同心である。当然のことながらその事件簿には不幸な人物が登場する。恵まれない環境に生まれ、あるいはめぐり合わせが悪くどうにもならず足掻いている。心に傷を持ち、不満を抱える弱者である。本書の表題となったおひでもその一人だ。慶次郎はそんな者たちを不届き者とばかりに切って捨てるのではなく、そっと寄り添う。相手の心の傷をそっと包み込むように。満たされない思いを持つ登場人物の一人はこう言う。「この世に生まれる時、あの子には貧乏神をあの子には福の神を背負わせるって、いったい誰が決めるの」 そんなことはわからないし、文句の持って行きどころなどどこにもないのだ。人生は不公平だし、不条理に満ちている。だから時に憤懣やるかたなく罪を犯してしまうこともある。そんな者たちに慶次郎は言う。「誰だって、仏のままじゃ生きられねえ」「誰の胸のうちにだって、夜叉は棲んでいるさ」と。そしてこうも言う。「風向きなんざ、風のいたずらだ。すぐに変わる」 そう思って生きるしかないのだろう。それこそ生きている間に風向きが変わる保証などどこにもない。しかしそれでも、希望を持って生きなければ、この世に生まれてきた甲斐がない。慶次郎が人に注ぐ温かい目差しは、北原氏の目差しでもあろう。