佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『素敵な蔵書と本棚』(ダミアン・トンプソン:著/田中敦子:翻訳/産調出版)

2021/07/22

『素敵な蔵書と本棚』(ダミアン・トンプソン:著/田中敦子:翻訳/産調出版)を読んだ。

 何ヶ月か前、米ギャラリー大手前での「本の会」で参加者が紹介された本である。その時、この本を手に取り、パラパラとページを捲ってみて、その美しさに魅了されたのである。

 まずは出版社の紹介文を引く。

書籍をこよなく愛する人に捧げる写真集。自らを愛書家を称する著者ダミアン・トンプソンが、リビングから書斎&ライブラリー、キッチン&ダイニング、ベッドルーム&バスルーム、階段&廊下、子ども部屋へと、住まいの各部屋をめぐりながら、本のさまざまな収納アイデアを披露。人と蔵書とのつながりを紹介しながら、インテリアのなかで書物が果たす2つの重要な役割――機能性と装飾性――を探究していく。本を置くことで空間に息吹を与えるテクニックを豊富な実例とともに紹介する。

 

 

 私は本の収集家ではない。美装本を手に取るとうっとりするが、それを所蔵しようとは思わない。高価な本を所有したいがために買うことに躊躇いがある。というよりそのような行為を忌避していると言って良い。貧しいとまでは言わないが、さほど豊かでない家庭に生まれ育った者として当然のことだろう。ただ買った本を読んだ後、それを捨てたり売り払ったりすることもできない。読んだ本に、それも楽しんで読んだ本なら余計に愛着を感じてしまい、ついつい手元に置いてしまう。そんなこんなで私の部屋には4,000冊前後の本がある。壁三面(残り一面は窓)のほとんどが書棚になっており、すべてが本で埋まっている。収まらない本は床に平積み状態である。本の数はおよそである。年間100冊ほどを読むので、大学を卒業して家に帰ってきてからこちら40年近くでそれぐらいになる勘定だ。私は本を仕事に行くときも旅行に出かけるときも鞄に入れて持ち歩く。バスや電車の車中、またちょっとした空き時間に開いて読むためだ。だから所蔵している本の大半は文庫本である。そんな本たちが壁一面に収まっている様を眺めるのは愉しい。様々な色と文字の背表紙が織りなす模様は美しくもある。ただ我が家の本棚はダミアン・トンプソン氏がこの本『素敵な蔵書と本棚』で取り上げる蔵書でも本棚とは少しちがう。いや、かなり違う。この本にあるのはインテリアとして計算された蔵書と本棚なのである。丁寧な装幀が施され、客の目にさらされることを予定して選ばれた蔵書。空間の中で目を引き、さりげなさを装いながら知的であることを印象づけるアイテムとしての蔵書と本棚が美しい写真でどのページにも溢れている。「しゃらくせえ。本はインテリアなんかじゃねえぜ!」と腐しながらもページを捲る手が止まらない。写真に目が奪われる。眼福とはこのことか。

 考えてみれば20世紀後半から21世紀前半を生きることができた私は幸せなのかもしれない。世は既にデジタル時代。電子書籍や”Audible”といった本の楽しみ方に置き換わりつつあり、もう10年、20年すれば個人でこの本にあるような蔵書と書棚を持つ人はよほどの趣味人か金持ちだけになってしまうのかもしれない。既に紙媒体の本は懐古趣味と言われ始めている。紙で読みたい派の私ですら”Kindle”を持っており、それには6インチの画面厚さ約8ミリの中に数千冊の本が入ってしまう。私の世代は音楽においてメディアの激変を経験してしまっている。LP・EPレコード、カセットテープの時代からCD、MDの時代に、さらにはデジタルメディアプレーヤーやPCで音楽を聴くようになり、今は音楽データをダウンロードすることもなくストリーミングで聴いている。音楽資源を保有することなく、いつでもどこでもアクセスして聴くようになっている。

 そのような経験からして、紙の本が無くなってしまうのではという危惧はほぼ確実に訪れる近未来と思える。たとえ無くなってしまわなくとも、紙の本は高価なものになってしまうのかもしれない。そうなって欲しくない未来である。しかしこんなことを言っている私はもう過去の人間なのだろう。