佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『神さまたちの遊ぶ庭』(宮下奈都:著/光文社文庫)

2022/02/13

『神さまたちの遊ぶ庭』(宮下奈都:著/光文社文庫)を読んだ。

 宮下奈都氏の本をこれまで読んでいなかったのだが、先日読んだ『大崎梢リクエスト! 本屋さんのアンソロジー』(大崎梢ほか:著/光文社文庫)に収められた短編「なつかしいひと」がたいへん良かったので宮下氏の他の作品をぜひ読んでみたいと思ったのです。

 まずは出版社の紹介文を引く。

北海道のちょうど真ん中、十勝・大雪山国立公園にあるトムラウシ。スーパーまで三十七キロという場所へ引っ越した宮下家。寒さや虫などに悩まされながら、壮大な大自然、そこで生きる人々の逞しさと優しさに触れ、さまざまな経験をすることになる。『スコーレNo.4』の宮下奈都が「山」での一年間を綴った感動エッセイを文庫化。巻末に、宮下家のその後が読める「それから」を特別収録。

 

 

 読んでいてなんと楽しく幸福であったことか。ここに書かれているのは宮下家の2013年4月から2014年3月までの北海道トムラウシでの移住生活の記録だ。エッセイというより日記に近い。何が楽しいと言って、トムラウシの美しさ、自然の素晴らしさがビンビン伝わってくる。ちなみにトムラウシ大雪山系の山である。アイヌ語でカムイミンタラ(神さまたちの遊ぶ庭)と呼ばれる美しい山らしい。6月に道端にぴょこぴょこ生えるフキノトウをうれしがって摘んで天ぷらにして食べていたら、いくらでも採れるのでもう見るのもイヤになったという。ちょっと歩けばアイヌネギ、ミツバ、タラの芽、ぶどうの芽・・・・・・、素晴らしい。12月、積もったばかりのふわふわの雪にシロップをかけると、どんなかき氷よりもうまいという。う~~、そりゃそうでしょうとも。たまらんなぁ。私自身も北海道に魅せられて、一昨年、昨年と二年続けて二週間ばかりの旅行をしている。有名な景勝地でなくとも、普通に目にする森、丘、川が感動レベルで美しい。そこかしこで出会う野生動物、鳥、草花に目を奪われる。ポタリングや散歩しているだけで幸せを感じる。それは旅行とか観光といったスタイルとは違った経験である。

 もう一つビンビン伝わってくるものはコミュニティでの生活の幸福感だ。ここに住む人はもちろん少ない。当然人口密度は極端に薄い。しかしつき合いの密度は限りなく濃い。親戚以上の濃さといって良いだろう。設備や物の面で不便な過疎地で、しかも時に過酷な自然環境の中で暮らしていくうえで、そうしたコミュニティの濃密なつき合い、助け合いはある意味必須の事柄だろう。そうした事情もあってのことか、とにかく皆の仲が良い。お隣さん、同級生、学校の先生、みんなみんなそれぞれがお互いのことを良く知っており、お互いを尊重し敬意を払っている。ことあるごとに大人も子どもも老人も職業や世代の分け隔て無く皆が集まってバーベキューやら運動会やらカラオケ大会やら学芸会をやる。といって強制圧力があるわけではない。参加しようとする者に無条件でひらかれているだけ、そんな感じだ。そこには引っ込み思案も疎外感もない。それほど心のバリアが必要無い親密な間柄だから。

 親密と言えばこんなエピソードが深く心に残った。それはトムラウシで育ち、都会の大きな高校に進学したあるお嬢さんの話である。その子は明るく勉強もでき、進学した高校で友だちもたくさん作ることができた。でも、ある日突然、学校で体に力が入らなくなって、起き上がることが出来なくなった。それは一度きりではなく、その後も学校へ行くとそんなふうになった。とうとう学校を休学し車椅子でトムラウシに帰ってきた。その子は「学校がつらかったんじゃない。学校は好きだ、行きたい」と言う。病院でもカウンセラーでもどうしたらよいかわからない。そんな話だ。中学校の先生の言葉が印象的だった。「残念ながら、ここを卒業した子が都会の大きな高校でうまくやっていけるとは限りません。この学校の子は、友だちのつくり方がわからないんです。ここにいると、みんなはじめから友だちだから」 ちなみにその子はトムラウシに帰ってきて車椅子ながら明るく暮らした。そしてしばらくして地元の全校生徒数十人の高校に転校してもう一度同じ学年から通い直そうと決めた途端に歩けるようになったという。目の前でスキップするその子を見てトムラウシの全員が泣いたという。私も泣いた。その子は先生になりたいと言って北海道教育大学に進学がかなった。良かった。本当に良かった。

 このエピソードをどう考えたら良いのだろう。トムラウシという普通でない環境で正常に社会に溶け込むすべを身につけることができずに育ったととらえるべきなのか? ならば、はたして普通とは何だろう。マジョリティが普通だとするとトムラウシの環境は確かにその正反対(希少)だといえる。だからといって普通が正しいわけではなく、あくまでも多数であるということに過ぎない。トムラウシの子どもたちがいびつに育っているとは思いたくない。それどころか本書を読む限りむしろ理想的な環境に育っているように思える。逆に我々が普通だと思っている今の世の中の何かがいびつで間違っているのではないだろうか。そういう視点で見直す必要があるのではないか、そんな気がする。そんなふうに考えるのは、つい先日読んだ『モモ 時間どろぼう と ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語』(ミヒャエル・エンデ:著/岩波書店)に感化されてのことかもしれない。

 トムラウシに住むことは、便利さや収入の良い仕事、そういったことを捨てることでもある。なくすものがある。というより無いものだらけだ。それでもそこにあるものは何ものにも変えがたいほどキラキラしている。何に価値を見いだすか、それによってトムラウシは豊饒の地にも不毛の地にもなり得る。しかしこれだけは言える。トムラウシを豊饒の地と感じられる人の心は豊かで”Happy”だと。