佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『私の百人一首』(白洲正子:著/新潮文庫)

『私の百人一首』(白洲正子:著/新潮文庫)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

ひさかたの光のどけき春の日にしずこころなく花の散るらむ―どこかで習い覚えた百人一首の歌。雅びな言葉の響きを味わい、古えの詠み人の心を辿ると、その想いが胸に届きます。一首一首の読みどころ、歌の背景、日本の和歌の歴史―白洲さんの案内で、愛蔵の元禄かるたの美しさを愛でつつ歌の心を知り、ものがたりを読み解くような面白さとほんものの風雅を楽しみましょう。

 

 

 正月明けからほぼ3ヶ月かけて少しずつ読んできて、今日やっと読み終えた。百首という量はそれほどのものだ。けっして少なくない。思えば高校1年生の冬、先生からの「百人一首ぐらいは諳んじておきなさい」という言葉に、それもそうだなと思ったものの数首で挫折してそのままになってしまっていた。意味も詠み人の人物像も時代背景もろくに知らず、ただただ丸暗記しようとしたのが間違いだった。こうした本でその歌と詠み人について関連知識を得ながら、現代語訳で意味も知って深く味わってこそ面白みがあり、暗記の努力も続こうというものだ。ただ白洲氏は本書において現代語訳を最小限に止めていらっしゃる。あとがきに「くわしく訳せば訳すほど、遠ざかることを知って、よほどわかりにくい場合だけに止めた」と書かれたとおりである。とはいえ、私のように素養の無い者は大方の意味を知っておかねば、折角の白洲氏の解説を味わうことも出来ない。ネットで公開されている現代語訳をしばしば参照しながら読むこととなった。

 百人一首の中で私が一等好きなのは今も昔も崇徳院「瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ」だ。ちょっと気恥ずかしいが一途で強い恋心に惹かれるのだ。そしてこれはほんとうに恥ずかしいことだが、私は本書を読むまで崇徳院のことを女院だと思っていた。女性の一途な想いのロマンチックさにぽっとしていたのだ。原因は落語の『崇徳院』にある。それは「さる大家の若旦那が恋煩いにやつれて今も死にそうになってしまう。原因は清水さんにお詣りしたとき、たまたま茶店で出会ったどこかのお嬢様に忘れ物を手渡したとき、そのお嬢様が別れ際に崇徳院の上の句”瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の"としたためた短冊を置いていったことにある。若旦那はそれ以来、お嬢様に恋い焦がれ、かといってどこのどなたかも判らずもんもんとして・・・」という噺である。落語ではお嬢様も若旦那に一目惚れして、その想いを崇徳院の和歌に託したという設定なので、私はすっかりこの歌を女性の詠んだものとして認識してしまっていたのだ。なんとも迂闊なことだ。

 四十数年ぶりに百人一首をひととおり読んでみて、やはり楽しいのは恋の歌である。心浮き立つというのだろうか。しかし高校生のころとやや違っているのは、そのいくつかに見えるなまめかしさに感じ入るところだ。高校生の私は未だ奥手であった。歌のうらにある心情を充分に理解していなかった。齢六十を超えた今であれば少しは判る。そして百人一首の中にあるなまめかしさは、その表現に抑えが効いているところが良い。度が過ぎては興ざめだ。そうした感じ入り方も齢六十の成せる技か。歳をとることも悪くない。