佐々陽太朗の日記

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『善人は、なぜまわりの人を不幸にするのか 救心録』(曽野綾子:著/祥伝社黄金文庫)

2022/03/24

『善人は、なぜまわりの人を不幸にするのか 救心録』(曽野綾子:著/祥伝社黄金文庫)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

たしかにあの人は「いい人」なんだけど……。困った人たちが、あなたの周りにもいませんか? 善意の人たちとの疲れない<つきあい方>

 

 

【本書「まえがきより】

善意の人々は、自分の好み、自分の思想、が正しいのだから、それは世間にとってもいいことだ、と疑ったこともない。たとえ正しいことでも、世間では、その正しさが相手を苦しめることもあるなどとは夢想だにしないのである。もちろん家族や世間を困らせるのは、いわゆる犯罪であり、悪意や憎悪である。しかし善意もまた、時には油断がならない。

 

 6年前に『弱者が強者を駆逐する時代』を読んで以来の曽野氏の本。本当に久しぶりである。

jhon-wells.hatenablog.com

 

 本書(単行本は2007年3月に刊行された)を読んで、日本人は今こそ曽野氏の意見に耳を傾け、よくよく考えてみるべきだろうと思う。というのも、今、まさにロシアのウクライナ侵攻を目の当たりにしているからだ。それも軍事施設だけでなく、民間人をも巻きこむかたちで攻撃し、あろうことか原子力発電所を攻撃している。さらに生物化学兵器の使用や核兵器の使用までちらつかせているのだ。

 このような事態が現実に起こっているということ、それも国連の常任理事国である大国が一方的に始めた戦争であるという現実を見て、我々は人間というものをどう理解すべきだろうか。平和憲法を有し、日本国民が一致して「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚し」、「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」していれば戦争は起こらないのだとぼんやり考えていてはたして良いのだろうか。そもそも信頼に足る「平和を愛する諸国民の公正と信義」など本当にあるのか。日本国憲法の理念は美しい。理想であるとも思う。しかし理想はあくまで遠い将来のあるべき姿であって、それに少しでも近づこうとする姿勢と努力は貴いが、その理想を嘲り踏みにじる暴虐の徒が多く存在するのも事実なのである。とすると現時点での理想とはあくまで建て前に過ぎない。曽野氏は本来は建て前と認識しなければならないことを、臆面も無く信じ込んでしまう日本人の幼児性を次にようにするどく指摘し喝破する。(なお上に書いたロシアによる軍事侵攻と日本国憲法云々については、あくまで私の考えであって、曽野氏が書いていらっしゃることではないので、念のため申し添える)

 幼児性はものの考え方にも、一つの病状を示すようになる。理想と現実を混同することである。この混同は、自分がその場に現実に引き出されない限り、それが嘘であることが証明されない、という安全保障を持っている。

  (中略)

 平和は善人の間には生まれない、と或るカトリックの司祭が説教の時に語った。しかし悪人の間には平和が可能だという。それは人間が自分の中に十分に悪の部分を認識した時だけ、謙虚にもなり、相手の心も読め、用心をし、簡単には怒らずとがめず、結果として辛うじて平和が保たれる、という図式になるからだろう。つまり、そのような不純さの中で、初めて人間は幼児ではなく、真の大人になるのだが、日本はそういう教育を全く行ってこなかったのである。

                      (本書P76~P78より抜粋)

人間性とは何か」

 私はカトリック的な環境で育ったので、人間の性悪説を少しも拒まない。神さえも「私は善人のためではなく、罪人のためにこの世に来たのだ」と明言されている。もちろん正悪な人間も時には、輝くばかりの魂の高貴さを見せることがあるという、明確な可能性と希望を前提にしての性悪説である。

 しかし戦後の日本では、日教組も、進歩的文化人も、声高らかに性善説を合唱した。さぞかし疲れて、しかも辻褄の合わないことが多かったろう。だから、私は実に心が自由だった。人にも少しは寛大になれた。悪にも驚かなかった。

                      (本書P85~P86より抜粋)

 引用ばかりになってしまうが、”世の中の三悪「おきれいごと」”という次の一文も今まさに世界が直面している情勢に鑑みてまことに的を射ていると感心する。

 世の中の悪には、少なくとも二種類があった。一つは殺人、放火、誘拐、窃盗、詐欺などのように他人の身体・財産に明らかな危険や損害を与える行為である。

 もう一つは名誉毀損、脅迫、思想統制のような純粋に精神的な圧迫だけだが、それが人間の暮らしに大きな影を与えるものである。

 これに加えて、私は最近「第三の悪」があると思うようになった。それは、大の大人がこんなおきれいごと(※注)を言うことの迷惑である。

 政治家というものは、明らかに心にもないことを言うものだ。ほんとうのことを言っていたら、国民にも新聞記者にも叩かれてやっていけない職業なのである。アメリカのミサイル防衛に何の危惧も抱かないのなら、中ロは決して今になって条約など結ばないだろう。それは明らかにアメリカを仮想敵国とし、アメリカを牽制する目的のためにできたのである。

 プーチン大統領が世界平和のために云々したと報じるだけはいい。しかし大人であるべき新聞の社説がこんな高校生まがいの記事を載せ、かつ特定の国を敵視しないことなどが、現実の問題としてできるかどうか考えもせずおきれいごとを述べるのを読んでいると、世にも甘い青年ができる。これを第三の悪だと私は思うのである。

 勢力の均衡によって戦争に至らない状態というのは、仮想敵国を想定し、お互いの間に何が起こるかを繰り返し繰り返し、予測し、修正し、また予測して、妥協案を考え出すことでやっと可能なものとなるであろう。

  (中略)

 どこの国でも、近隣の国は利害が一致せず、肩肘を張っていないとこちらがやられてしまうものだ、と教える。しかしそれだけではない。そういう相手に対しても、隣人であるが故に、いかなる感情も超えて助けなければならない場合があるのだ、とも教える。その対立する二つの現実に賢く耐えるのが大人なのだ、と教える。いわば着物にしたら裏をつけた袷の含みである。日本人の精神は一重ばかりだ。ことに国際関係で敵視しないこと、というのは現実に離反した考えである。

 人間は、時には好意を持って、時には憎悪によって相手を理解する。好意だけで、相手を完全に理解できれば、こんないいことはないのだが、人間の眼が鋭くなるのは、多くの場合、憎悪によってである。

 いずれにせよ、我々は相手を見る目利きにならなければならない。善意だけあって、相手が何を考えているのかわからないようなお人好しを作るのも迷惑至極である。

                      (本書P29~P32より抜粋)

 

※注:2001年の中ロ善隣友好協力条約締結後、プーチン大統領が「この条約が世界の平和と安定に寄与する」と言ったことをうけて、防新聞の社説が「もしも条約に込めた両国の本音が『共通の敵』をつくり、それに対抗することなら『世界の平和と安定に寄与する』願いとはむしろ逆行する。特定の国を敵視せず、相互の協力、協調を発展させることで国際社会にも貢献する。そんな両国関係であってほしい」と書いたことを指す。