佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『日本の論点 Global Perspective  Strategic Thinking 2021~22』(大前研一:著/プレジデント社)

日本の論点 Global Perspective  Strategic Thinking 2021~22』(大前研一:著/プレジデント社)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

コロナショックの影響は甚大。インバウンド→99.9%消失。航空業界→経営統合案が再浮上?鉄道業界→再編・一部統合案も。飲食業界→半減も。DX(デジタルトランスフォーメーション)時代に、生き残るスキルを磨け!
目次巻頭言 DX(デジタルトランスフォーメーション)時代に、生き残るスキルを磨け!日本編(20世紀型の経済政策では、新型コロナ危機に対処できないオリンピックと甲子園は大ナタをふるった改革を実行せよ2020年2月時点で予測!新型コロナ拡大で東京五輪の中止はあるCOVID‐19があぶり出した「危機に弱い国」日本の実態コロナ対策で露呈した地方リーダーたちの明確な実力差 ほか)世界編(「トランプ・マジック」の崩壊によって引かれる株価暴落のトリガー人種差別や抗議運動への対応で見えた「トランプ再選」の赤信号トランプから飛び出した「日米安保見直し」発言の真意終わりの見えない「米中貿易戦争」。本当の勝者は誰か世界が注目する香港デモに対し、中国が一歩も譲らないのはなぜか ほか)

 

日本の論点2021~22

日本の論点2021~22

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 久しぶりに読む大前研一氏である。買ったのではない。ご近所の奥さんからの借り本である。ご親戚にプレジデント社の編集者がいらっしゃる由。すばらしい。

 大前氏のご著書をよく読んでいた時期がある。もう20年以上前のことだが。その頃は仕事に没頭しており、社会の変化それもビジネス分野の変化の方向についての興味が強く、大前氏の眼識に惚れ込んでのことである。久しぶりに読んで、やはりハッとさせられる洞察、自分もそう思うと共感すること、過去を知りつつそれに囚われない発想に大きく刺激を受けた。仕事を引退して2年にばかり、好きな小説ばかり読んできた。それはそれで大層うれしいことではあるが、たまにはこうした本も読んだ方が良いなと感じた次第。

 読むタイミングが1年ばかり遅れてしまった話題ではあるが、本書に書かれたことのなかで「オリンピックと甲子園は大ナタをふるった改革を実行せよ」は今、庶民的には多くの人が感じている問題点だろう。この国が変わろうとしているか、相も変わらずぐずぐず曖昧な態度を取ろうとするか、その変化の兆しは案外この問題への対処で見えるのではないかと思う。というのも、この問題は従来の考え方を変えたり改革を断行したとしても、その影響は限定的であり、この問題への対処もできずに、大きな痛みを伴う改革など出来るはずもないだろうからだ。

 しかしまあ、この国の現状は東京五輪が終わってまもなく、札幌五輪の招致に名乗りをあげようという情況。招致したい人、グループがいるのはわかる。しかしせめて物欲しげな態度を慎んで、IOCからの譲歩、あわよくば主客転倒的立場の転換を狙うぐらいの知恵はないものか。五輪がなければ死ぬわけでもなかろうに。昨今のスポーツ礼讃、スポーツ万能主義はいったいどこから来たのか。今の世の中、スポーツバカが跋扈している。スポーツの能力に優れることがそんなに偉いのか。人知れず世の役に立っている人はたくさんいる。五輪が開催されるされないで、五輪に出場できる出来ないで大げさに騒ぐんじゃねぇと思うのは私だけだろうか。当の本人にとって一大事であることはわかる。しかしマスコミをはじめ、まわりがギャアギャア言う理由がわからない。もちろん私は長い間精進を重ね、超人的な身体能力を獲得し精神の高みに達したアスリートを尊敬している。しかしだからといってそのことを特別扱いする気は無いのだ。些か口が過ぎたかもしれない。この段落に書いたことは大前氏の論説とは無関係で、あくまで私の私見に過ぎないことを断っておかねばなるまい。

 本書は近い将来こうなる、だから今後はこうあるべきだとする問題認識にあふれている。そしてその認識はかなり正鵠を射ていると思う。

 一番興味深かったのは日本がDXに立ち後れてしまっている問題であった。教育システムも企業の対応も立ち後れている。そもそも日本の社会そのものが21世紀に移行できていないというのである。大前氏は言う。「失業の山を乗り越えなければ、日本は向こう側、すなわち21世紀には渡れない」と。日本は2000年代に入ってのデジタルテクノロジーによる破壊的イノベーション(デジタル・ディスラプション)にとまどうばかりで、根本的な行動変革が出来ていない。私が思うに、日本はバカではない、変わらなければならないことはわかっている。ただ変革による副作用に躊躇しているのだろう。”失業の山を乗り越える”覚悟がないのだ。しかしいつまでもガラパゴスでいるわけにいかない。いずれはグローバルの潮流の渦にのみ込まれざるを得ず、覚悟があろうとなかろうと生き残るために自ら変わることになろう。この点、日本はどうしようもない転換点に立ったとき、案外しなやかに変わることが出来るかもしれない。明治維新、太平洋戦争敗戦において、大きな転換を受け容れ、時代の流れに追いつき追い越してきた実績がある。そう心配したものでもないような気もする。ただ、これまでのようにしっかりした会社に就職さえしていれば一生安泰というわけにはいかない。やはり会社に依存しないキャリア形成が必要になる。仕事において何がどのように出来るか(職務の内容と遂行能力)がより明確に問われることになるのだ。しかし考えてみれば、これも外資系企業では以前からあたりまえのことであって、日本の就社・終身雇用がむしろイレギュラーなのだ。私の個人的経験からしても、今から30年も前に某外資系企業から人事労務分野の経験を買われて、当時の年収の倍近い金額を提示されたことがある。しかし私は転職を望まなかった。昭和世代の私は心情的には日本型雇用システムが好きだし、勤めていた会社に(上司や同僚との関係も含めて)愛着もあったのである。今になっても、その選択で良かったと思っている。しかしデジタル・ディスラプションの波はもうそうした選択を許さないだろう。好むと好まざるとに関わらず、今後の雇用はジョブ型になってゆき、それゆえ労働者は常に労働市場で価値のあるスキルを持つことが求められるだろう。簡単に言えばもし転職しようとすれば他社からそれなりの年収でのオファーがある状態を保つ必要があるということ。厳しいなぁ、大変だなぁと思う。私が働いた時代はつくづく良い時代であったと思う。

 もう一つ、ある意味衝撃を持って読んだのは「21世紀の経済においては、20世紀の経済理論に基づいた施策は、ことごとく裏目・反対に出る」というもの。確かに40年前に大学で経済学を学んだ私の頭の中も「利下げをしてマネタリーベースをジャブジャブにすると景気が良くなり、逆に利下げをしてマネタリーベースを引き締めると景気は悪くなる」である。しかしボーダレス経済における大前氏の原則は次の3つ。①「金利の高いところへマネーが動く」。比較的リスクの少ない成熟国では、金利が高いほうが世界中からカネが集まってきて、市場も活況を呈する。②「ニーズのあるところにマネーは動く」。いくら市中にカネをばらまいてジャブジャブにしても、国内にニーズがなければニーズのある国にカネは流出する。③「世界レベルの生産および販売の最適化」。最も低コストで質の良い労働力、潤沢な労働力がある世界の最適地で生産され、最も高く買ってくれる最適地で消費される。そうするとボーダレス化が進んだ21世紀型経済においては、利下げなどの旧来的手法による経済施策は情況をさらに悪化させるだけということになる。そういわれるとそうかもしれないと思う。大昔に学んだことに凝り固まった頭を持つ人間には、もはやリーダーとしての資格がないのか。であれば60歳で早々に職を辞した私の選択は正しかった。若い者に活躍の場を譲って良かったのだ。きっと。