佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『ママがやった』(井上荒野:著/文藝春秋)

2022/09/09

『ママがやった』(井上荒野:著/文藝春秋)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

或る家族の半世紀を描いた、愛をめぐる8つの物語。

小料理屋の女主人・百々子(79歳)と、若いころから女が切れない奇妙な魅力をもった夫・拓人(72歳)。半世紀連れ添った男を、ある日水で濡らしたタオルを顔にかぶせ、その上に枕をおき全体重で押さえ、殺した。
急きょ集まった三人の子供たちに向かって「あんたたち、お昼食べていくんでしょう」と、百々子は米をとぎはじめる。
「ママはいいわよ。べつに、刑務所に入ったって」警察に連絡するしないでもめている三人に、のんびりした口調で話す。
死体処理の相談をする姉たちは弟・創太にブルーシートを買ってくるよう命じるが、創太の足は父親との思い出の店・小鳥屋へ向いていた――

表題作ほか、「五、六回」「ミック・ジャガーごっこ」「コネティカットの分譲霊園」「恥」「はやくうちに帰りたい」「自転車」「縦覧謝絶」の全八篇。

 

 小料理屋の女主人・百々子(79歳)が夫・拓人(72歳)を殺してしまったところから物語は始まる。水で濡らしたタオルを顔にかぶせ、その上に枕をおき全体重で押さえて殺したのだ。「なんで?」という子どもたちからの問いかけに対して百々子は「そのやり方をテレビドラマで観たのだ」といって理由らしきものは語らない。なぜなんだ? とあれこれ話し合う子どもたちに対し、百々子は「あんたたち、お昼食べていくんでしょう?」と支度をはじめる。夫殺しがあった後だというのに、この家族にはなにか緊迫感のようなものが欠けている。それは警察に届けるかどうかをめぐっての次のようなやりとりにも現れている。

「飯食い終わったら警察に電話しないと」

「警察? なんでよ?」

「なんでって――電話しないつもりなのかよ」

「警察に知らせたら、ママは捕まっちゃうのよ」

 時子が小さい子に教える口調で言い、

「まま、来年には八十歳になるのよ。刑務所に入れたいの?」

 文子が涙ぐみながら咎めた。・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・

「ママはいいわよべつに、刑務所に入ったって」

 母親がのんびりした声で割って入った」

「どうせもうそんなに長くは生きないんだもの。警察に知らせたほうが、あんたたちだって簡単でしょ。そうしなさい」

「だめよ、ママ」

「ママ、刑務所に入ったら三食刑務所のごはんなのよ。おいしいものなんか食べられないのよ」

 姉ふたりが口々に言うと、母親は「そうねえ」と思案する顔になった。

 

 なんだこれは。ひょっとしてユーモア小説なのか? と思ったほどぶっ飛んでいる。こんな場面が描けるなんて、井上荒野氏はただ者ではない。物語のはじまりの数ページを読んだだけでこの小説を読んだ価値はあろうというものだ。

 父・拓人は若い頃から女が切れない。仕事もせずに次々と女を作ってばかりいるダメ夫、ダメ父である。72歳の今も不倫相手はおり、それを家族にはばかる様子もない。百々子も子どもたちもそれをとがめたりすることはなく、それはもう家族のあたりまえになっているかのようだ。

 いったいこの家族は何なんだ? 読者の頭にそうした疑問がもたげる。表題作「ママがやった」でそんな疑問を残したまま、以下、「五、六回」「ミック・ジャガーごっこ」「コネティカットの分譲霊園」「恥」「はやくうちに帰りたい」「自転車」「縦覧謝絶」と家族と拓人の愛人それぞれの視点で描く連作物語で断片的ではあっても家族の実像が見えてくるという構成。

 小説の中で母は父を殺した理由をとうとう口にしなかった。半世紀もの間、ろくに仕事をせず、女の切れなかった父と平然と暮らしてきた母。それなのに何故、父を殺してしまったのだろう。しかしそれは第七編「自転車」の中で察しがつく。いったいそれは何だったのか。それをここで語ることはできない。

 この物語には修羅場がない。妻が夫を殺してしまうほどの何かが家族の中にあったにもかかわらずそれがないのだ。普通の人間にはそれがなんとも奇妙だ。しかしひょっとしたらそれは、これを書いたのが井上荒野氏だからかもしれない。井上荒野氏はかの井上光晴氏の娘である。荒野氏が雑誌か何かのインタビューに答えていらっしゃるのを読んだことがある。荒野氏が五歳から十二歳までの七年間、父・光晴氏は瀬戸内寂聴氏と不倫関係にあり、その後寂聴氏は出家された。出家された後も寂聴氏は井上家を訪れ、荒野氏の母とはとても仲が良かったのだとか。光晴氏は寂聴氏と付き合っていたころも、さらに別の女があったようで、ぶらっと出かけて泊まってくるようなことは井上家の日常であったらしい。そして両親は仲が良かった。そうした家庭に生まれ育った荒野氏であるからこそ、この小説は生まれたのかもしれない。もちろん私の勝手な想像だが。しかしそうした想像がこの小説をさらに楽しく読ませてくれる。