佐々陽太朗の日記

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『三成の不思議なる条々』(岩井三四二:著/光文社時代小説文庫)

2022/10/21

 『三成の不思議なる条々』(岩井三四二:著/光文社時代小説文庫)を読んだ。二ヵ月前に『八本目の槍』(今村翔吾:著/新潮文庫)を読んだ流れで三成を描いた小説を他にも読みたくなった。そう、私は三成ファンなのだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

 たかが二十万石の身代である石田三成が、なぜ西軍の大将として指揮をとったのか? 西軍、東軍、どちらに道理があったのか? 関ヶ原の合戦から三十年、当時を知る人々を訪ね歩く町人がいた。『関ヶ原合戦大名衆振舞ノ子細』としてまとめられた一冊から浮かび上がる歴史の真相とは!? そして、敗軍の将・三成について、町人を使って調べさせた「さるお方」の思惑は!?

江戸の筆屋で働く男が、上方から岡山まで足を伸ばしてゆかりの人びと12人を尋ね歩いて聞き出した関ヶ原の真実。

 

 

 

 関ヶ原合戦から三十年が経った頃、日本橋の筆紙商い文殊屋が、謎の依頼人から内密に関ヶ原合戦が実際にどうであったのかを調べて欲しいと依頼を受け、当時を知る人物を訪ねて歩き、聞き書きをしていく物語です。その数は十二名。皆、年老いているがたとえ断片的にではあっても事実を見知る者たちばかり。彼らにインタビューすることで、関ヶ原合戦の敗軍の将として刑死した石田三成の振る舞いと人柄が浮き彫りになっていく。十二名それぞれに尋ねたポイントは次の四点。

  1. たかだか20石ばかりの身代の三成が、どうして天下の軍勢をうごかせたのか。
  2. 三成の戦の手立てはどうであったか。
  3. 関ヶ原合戦は三成と家康のどちらに道理があったのか。
  4. 関ヶ原で戦った者やその子孫の消息。

 そうして浮かび上がってきた三成の姿は、その風采においてせいぜい有能な官吏といったところでお世辞にも西方の総大将というものではなかった。しかし、頭脳の面で際だった能力を持ち、とりわけ算勘に優れ、検地の遣り方などを地方の大名に指南するなどして感謝されていた。特に中央に伝手がなく邪険にされがちだった小大名も分け隔てなく公平に扱い頼りにされていた。また兵法にも洞察が深く、けっして戦下手ではない。信念を貫くことから融通がきかない印象があり、愛想もないことから誤解されがちだが、意外にも相手を思いやる心を持つ人物であったというもの。つまり貶められた三成の印象は、関ヶ原の勝者たる徳川方に偏向して作られたものだということだ。まさに「歴史は勝者が作る」である。

 三成自身は天下など狙ってはいない。豊臣家が統べるかたちで戦のない世を実現し、兵を減らし田に返す。軍事に使う金を減らすことは年貢を抑えることに繋がる。現に自分が治める領地において、年貢を量る一升枡に八合しか入らぬものを用い民を思いやったという。

 家康が戦う前に味方を増やすことに腐心したことに対し、三成はあくまで道理に訴えて諸大名を説得しようとした。家康は嫁取り、婿取りなどの搦め手を用い、間者を送り込み内部情報を盗むとともに、戦に臨んでは裏工作で寝返りを仕組んだ。道理は三成にあった。しかし老獪な家康の手練手管の前に敗れたのである。兵法上の戦略に勝っても、裏切りにあってはどうにもならない。あくまで道理に従い、正攻法で事にあたろうとしたその青臭さが悪賢さに敗れ去ったといえる。しかしその青臭さこそが三成の魅力なのであって、敗れたりとはいえ天晴れではないか。三成は六条河原で首をはねられるときも淡々として取り乱すことはなかったという。

 人の世は不条理だ。歴史の勝者は必ずしも正しい者ではない。せめて後世に生きる我々は秀吉のような人気取りや、家康のような汚いまねをした男ではなく、美しく生き潔く逝った三成をこそ称えるべきだろう。