佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

かもめ

トレープレフ  (仕事に取りかかろうと、書いたものに目を走らせる)これまで僕は新しい形式についてへらず口を叩いてきたが、徐々に自分が型にはまっていくような気がする。(原稿を読み直す)「塀のポスターが謳っていたのは……黒髪に縁取られた青白い顔……」。謳っていたとか、縁取られたとか……月並みだな。(消す)雨の音で主人公が目をさますところからはじめよう、ほかのところはボツだな。月明かりの夜の描写は長ったらしいし、もったいぶっている。トリゴーリンなら彼一流のやり方があって、こんなもの造作もないんだ……。やつなら、堤防の上に割れたボトルの口がきらりと光り、水車の影が黒ずんでいたとか書けば、月夜の描写は一丁上がりだ。ところが、ぼくときたら、打ちふるえる明かりとか、かそけき星のまたたきとか、静かな香しい大気の中に消えゆく遠いピアノの響きとか……まるで、なっちゃいない。

                                       (本書P136より)

 

 

『かもめ』(チェーホフ・作/浦雅春・訳/岩波文庫)を読みました。

 

 

まずは出版社の紹介文を引きます。


作家志望のトレープレフと女優を志すニーナ。美しい湖を背景にさまざまな恋が織りなす人生模様。かつての恋人の前に現れたニーナの洩らす謎めいた言葉―「私はかもめ」。それぞれが心に秘める「かもめ」は飛翔できるのか?演劇史に燦然と輝く名作。新訳。


 

 

 私は戯曲など読まない。戯曲を読みたいと思うほどに演劇に興味がある訳ではないからだ。ところがこの『かもめ』は読んでみたいと思った。そのきっかけとなったのは先日読んだ北村薫氏の『六の宮の姫君』。この小説中にチェーホフは《割れた壜》でいとも簡単に月夜を作ってしまうというくだりがある。同時に《風呂に入るのは簡単なのに、それを文章で生き生きと書くのは難しい》という芥川(?)の一文と共にである。読んでみたくなった。チェーホフとはそれほどの作家なのかと……。読んでみて確かにP136”堤防の上に割れたボトルの口がきらりと光り、水車の影が黒ずんでいた”とある。なるほど確かにすごい。しかし「月夜」という事象は誰にも明らかで、あれこれくどくど書かずとも画として読者の心に情景を浮かべることは可能だろう。しかし、それが人間の行動や心の有り様になるとそうは行かないだろう。それこそ人それぞれでつかみようが無い。そこを多く語らず、説明しない謎のままの戯曲にされても読者や観客は解釈に迷う。そう、私には『かもめ』が分からないのだ。トレープレフが銃で命を絶った本当の理由が何なのか。彼にそのような行動を取らせた深い絶望は何に起因するのか。ニーナの心が永遠に自分に向くことはない故の絶望なのか、あるいは、どんなに努力しようとトリゴーリンのような文章を書くことができないという己の限界を知ってしまったからなのかと、様々な解釈を試みることは可能なのだが、チェーホフは読者や観客がそれを推理し間違いないと確信するだけの材料を提供していないように思えます。まことに困ったことです。