佐々陽太朗の日記

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『模倣犯』(宮部みゆき:著/新潮文庫)全5巻

2021/08/03

模倣犯』(宮部みゆき:著/新潮文庫)全5巻を読み終えた。

 各巻について読後に読書メーターというサイトに書き込んだひと言レビューを添えておく。

 【第1巻】

どうしてこんな邪な輩がいるのだろう。もちろんこれはフィクションだ。しかしかたちの違い、程度の差こそあれ、現実社会にもここにあるような犯罪者がいる。彼らにも事情はあるだろう。彼らもまた社会の犠牲者だという声もある。だが仮にそうだとしても、踏みにじられて良い命などない。真っ当に生きる命が奪われて良いはずはない。それだけは確かだ。この救いのない物語は始まったばかりだ。まだ残り4巻ある。この物語の行く末を見届けたい気持ちと、もう読むのをやめたい気持ちが相半ばしている。しかしどうあっても正義の裁きを見たい。次巻へ。 

 

【第2巻】

 被疑者死亡で終わった第1巻。第2巻は死亡した被疑者二人とその同級生であるピースを中心に、時を遡って物語が展開する。被疑者の一人は見かけだけは良いがどうしようもないクズ。もう一人は底抜けのお人好し。あぁ、この幼なじみの組合せは最悪のパターンだ。真っ当で無垢なお人好しは極悪人からすれば格好な獲物。バカと虐げられ、利用され、搾取される。 お人好しはそれも判りながら幼なじみを拒絶できない。並はずれた優しさの持ち主でもある。救いのない物語だ。もう読むのをやめたい。しかし続きを読まずにいられない。次巻へ進む。 

 

 

【第3巻】 

和明がなぜ浩美と縁を切らないのか。マインドコントロールされているのかとも考えたが、理由はもっと人間らしく温かいものだった。切なすぎる。無垢な者は悪意に対してあまりにも無防備で弱い。神はけっして善なる者を助けてはくれない。警戒心を持たず無防備な者が邪な者の欲望や快楽のために蹂躙される。あってはならないことだが、往々にしてそのようなことがある。理不尽に怒り、神も仏も無いものかと嘆いてもそれが現実。私が「優しくある」ことよりも「強くある」ことが必要だと気づいたのは18歳の春だった。和明にも気づいて欲しかった。  

 

【第4巻】

事態はどんどん悪い方に転がっていく。ピースが自信満々に好き放題やっていることにフラストレーションMAXだ。1巻から4巻まで溜まりに溜まったフラストレーションがはけ口を求めている。果たして最終巻ではそれを一気に解消してくれるのか。有馬義男じいさんと篠崎刑事、そして建築家の働きに大いに期待。さあ、宮部みゆき劇場はいよいよ大詰めを迎える。喜びの大団円は望むべくもないが、せめて正義の鉄槌をクソ野郎ピースに下して下され~~! <(_ _)> 

 

 

【第5巻】

ついに最終刊。警察の捜査によって緻密にじわじわと追い込まれていく結末を想像していたので、意外な結末。謎解きを楽しむミステリではなく、犯罪者とその被害者、そして身内に犯罪者を持ってしまった家族、被害者の家族、犯罪者を追う警察とジャーナリストといった様々な人間心理にスポットをあてた群像劇であった。それにしても全5巻という長編を、いっさいだれることなく読ませてしまうストーリーメイクと筆力に脱帽。 

 

 

 いやはやなんともすごい小説でした。全5巻で、しかも1巻当たり500P前後で総ページ数2,535Pという長編を中だるみすることなく読ませてしまう力業。参りました。

 この小説にモデルになった事件があるわけではない。ここまでの猟奇的殺人が現実にあるだろうかと思ってしまう。しかしこうしたシリアルキラーは現実にいる。アメリカのサミュエル・リトルは1970年から2005年にかけて29州37都市で93人もの人を殺したと供述しており、FBIはその犯行のほとんどを確認していると聞く。なにも海外だけではない。日本にだって戦中戦後の小平義雄、復讐するは我にありの西口彰、老人殺しの古谷惣吉、連続射殺魔の永山則夫、婦女暴行殺人魔の大久保清、出張殺人の勝田清孝、幼女誘拐の宮﨑勤、神戸児童殺傷事件のサカキバラ、尼崎連続殺人犯の角田美代子と枚挙に遑がない。殺人の動機は性的欲求、金銭目当て、あたかもゲームのようにスリルを楽しむもの、病的な幻想や強迫観念、被害者に対する力の誇示・支配欲求、社会への怒りなどさまざまだ。犯人は通常の公序良俗的な観念からすれば、想像もできないほどにかけ離れた感覚を持っており、あるいは普通は持っているはずの感覚を持っておらず到底理解できるものではない。そうしてみると人間というものは良くも悪くも多様で、ごく少数とは言えこうした異常者は社会に一定割合でいるのであり、我々はそれを前提に生活していかねばならないのだろう。

 犯罪者側に立った視点として、幼児期に受けた肉体的精神的虐待やネグレクト、貧困、差別などが原因しており酌量の余地があるとの見方もあるが、そのような環境に育った者全員が犯罪に手を染めるといったものでもない。むしろどのような環境に育とうとも、犯罪に手を染めることなく真っ当に生きている者がほとんどなのだ。殺人を強制されたわけでもあるまいに、その行為に弁解の余地は無い。

 私に言わせれば、被害者の人権と心のケア、そしてこれは望むべくもないが可能な限りの被害の恢復が優先されるべきであって、加害者の人権など二の次であろう。訳知り顔のマスコミや人権派弁護士の言うことなど糞食らえである。

 この小説を読みながら、人として周りに対する優しさを持ちながら真っ当に生きる者が異常者の欲求のせいで命を奪われ、その家族や友人の幸せがあっけなく失われていく様に心底怒った。愛する者が命を奪われた悲嘆に暮れる被害者家族が、やっと犯人が捕まった時、そいつがサイコパスであったときの遣る瀬ない思いを想像するだけで、その悔しさに胸がかきむしられる。

 読んでいる間、私の頭の中にふと学生時代に修業した少林寺拳法の聖句が思い浮かび、何度も何度も繰り返された。おそらく第3巻まで読んで和明が浩美と縁を切らないことに誘発されて思い浮かんだものと思う。私に関する限り、犯罪者に対する態度はハッキリしている。けっして犯罪者に同情などしない。仮に理不尽に蹂躙されそうな目に遭ったとすれば、力で立ち向かう。たとえ自分が非力で殺されてしまおうとも、力で立ち向かう。私はそのことを18歳の春に学んだ。

己れこそ、己れの寄るべ、
己れを措きて誰に寄るべぞ、
良く整えし己れこそ、
まこと得がたき寄るべなり

自ら悪をなさば自ら汚れ、
自ら悪をなさざれば自らが浄し、
浄きも浄からざるも自らのことなり、
他者に依りて浄むることを得ず

    (少林寺拳法 聖句より引用)