佐々陽太朗の日記

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『日本人の誇り』(藤原正彦:著/文春新書)

2024/10/27

『日本人の誇り』(藤原正彦:著/文春新書)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

「個より公、金より徳、競争より和」を重んじる日本国民の精神性は、文明史上、世界に冠たる尊きものだった。しかし戦後日本は、その自信をなぜ失ったのか? 幕末の開国から昭和の敗戦に至る歴史を徹底検証し、国難の時代を生きる日本人に誇りと自信を与える、現代人必読の書。

 この本を読もうと思ったのは自民党の総裁選挙の結果が出た日。つまり日本の新しい首相が決まった日である。先月の27日のことであった。私には残念な結果であった。「残念」という言葉では足りない。最低最悪の結果だったと思う。なぜ自民党はよりによって石破氏を選んだのだろう。もちろん石破氏に票を投じた議員にはそれぞれに理由なり計算なりがあったのだろう。しかし私にはその計算が国のためを思ったものではなく、何らかの私利私欲、恩讐によるものであったように思えてならない。自民党はそのうちこの結果の報いを受けることになるだろうと思っていたら、ひと月経った今日、案の定こっぴどい応報があった。選挙に大敗した。言わんこっちゃない。

『日本人の誇り』のレビューを書くにあたって、なぜこんな話から始めたかというと、石破氏には本書に書かれたような国家観が欠けているように思うからだ。石破氏はご自分では保守を標榜しているが、私にはそうは見えない。子細に述べることは避けるが、石破氏の立場が首尾一貫して反安倍晋三であったことからしてそれは火を見るより明らかだ。保守派の多くの支持を集めた安倍氏の主張は『戦後レジームからの脱却』であった。それは「憲法をはじめこの国の大きな枠組みを変えよう。教育、家族のあり方、社会のあり方、経済のあり方など、戦前の日本が大切にしてきた本来のあり方を取り戻そう」とした考え方だろう。そうした考えと似かよっていると思われる記述を本書の中から抜粋しよう。

 終戦と同時に日本を占領したアメリカの唯一無二の目標は「日本が二度と立ち上がってアメリカに刃向かわないようにする」でした。 ・・・(中略)・・・

 そのために日本の非武装化民主化などを行いましたが、それに止まりませんでした。・・・(中略)・・・ いつかこの優秀で、勇敢で、誇り高く、白人に跪く素直さに欠けた唯一の有色人種、日本人が強力な敵国として復活することを知っていたからです。 ・・・(中略)・・・

 GHQすなわちアメリカはまず新憲法を作り上げました。 ・・・(中略)・・・

この憲法が存在する限り真の独立国家ではありません。 ・・・(中略)・・・

 植民地住民を愚民化するというのはアングロサクソンの常套手段でした。住民が賢くなると植民地というものの不条理に気づき統治者に反逆するからです。また世界から絶賛されていた教育勅語を廃止して作った教育基本法では、個人主義を導入し公への奉仕や献身を大事にするという日本人の特性を壊しました。 ・・・(中略)・・・

 実はアメリカが日本に与えた致命傷は、新憲法でも皇室典範でも教育基本法でも神道指令でもありません。

 占領後まもなく実施した、新聞、雑誌、放送、映画などに対する厳しい言論統制でした。終戦のずっと前から練りに練っていたウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP=戦争についての罪の意識を日本人に植え付ける宣伝計画)に基づいたものでした。この「罪意識扶植計画」は自由と民主主義の旗手を自任するアメリカが、戦争責任のいっさいを日本とりわけ軍部にかぶせるため、日本人の言論の自由を封殺するという挙に出たのです。

 この「罪意識扶植計画」は、日本の歴史を否定することで日本人の魂を空洞化をも企図したものでした。ぽっかりと空いたその空地に罪意識をつめこもうとしたのです。そのためにまず、日本対アメリカの総力戦であった戦争を、邪悪な軍国主義と罪のない国民との対立にすり替えました。 ・・・

 私の見るところ、石破氏は未だにWGIPの影響から脱却できない政治家のひとりであり、その石破氏に自民党総裁選で惜しくも敗れた高市氏は故安倍晋三氏の薫陶を受けて正しい国家観を持っていらっしゃる。今、唯一の希望は高市氏の人気が今も上昇基調にあること。先に一筋の光明がさしているように思える。

 そうした現下の政治状況があって、それ故今本書を読むことにした次第。

 さて、それでは本書を読んで感銘を受けたことをいくつか書いておく。

 まず、戦後の日本を覆っている史観、つまり日本は悪い国、日本は間違った国、日本は恥ずかしい国という自虐的なものについて藤原氏は全く逆の見方をしている点を取り上げたい。自虐的な史観は大方次のようなものであろう。即ち江戸時代とは「士農工商という厳しい身分制度に基づいた封建制度の下、自由も平等も人権もなく庶民は惨めな境遇であえいでいた」時代。明治時代とは「帝国主義に基づく猛烈な富国強兵策と不平等条約のもと庶民は困窮していた」時代。つまり封建制度は悪、富国強兵策は侵略戦争に繋がった諸悪の根源という捉え方をしている。その見方を間違っているとは言わない。しかし過去の歴史を現在の価値観で断罪してはならないだろう。藤原氏は明治時代に日本を訪れた欧米人の評価を次のように記している。

「貧乏人は存在するが貧困は存在しない」(アメリカ人学者 モース)

「この国のあらゆる社会階級は社会的には比較的平等である。金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。・・・・・・ほんものの平等精神、われわれはみな同じ人間だと心底から信じる心が社会の隅々まで浸透している」(バジル・チェンバレン イギリス人日本研究者)

「日本には、礼節によって生活を楽しいものにするという、普遍的な社会契約が存在する。・・・・・・その神のようにやさしい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、その礼儀正しさは、謙虚ではあるが卑屈に堕することなく・・・・・・」(イギリスの詩人 エドウィン・アーノルド)

 つまり欧米では裕福とは幸福を意味し、貧しいとは惨めな生活や道徳的堕落という絶望的な境遇を意味していたが、日本はそうではなかったと藤原氏は言うのだ。戦前の日本人のふるまいに美しさと気高さを見いだしているのである。日本は当時進んでいるとされる欧米諸国に為し得なかった「貧しいながら平等で幸せで美しい国」を建設していたのである。

 もう一つ書いておきたいのは大東亜戦争の評価である。藤原氏の見方は日本人は論理や理屈だけでは本気で動こうとしない民族で、情緒や精神に訴える大義にほって動くのだということ。日本が中心となって東アジアの白人植民地を解放し、そこに平和と繁栄を築こうとした。それは白人の牙から同胞アジア諸国を守ろうとする幕末からのアジア主義であり、日本人の気概のほとばしりでもあった。日本以外にそんな気概のある国は皆無だった。「八紘一宇」と「大東亜共栄圏」は独りよがりな気負いでしたが、世界征服を睨んだものではけっして無い。以上が藤原氏大東亜戦争に対する評価であり、それは東京裁判清瀬一郎弁護人が主張し認められたところである。現代の価値観で歴史を判断するな、仮に現代の価値観で歴史を判断するなら、間違っていたのは敗戦国たる日本だけではなく、世界各地を植民地化した欧米列強こそその責めを負わねばならないだろう。

 日本人は金銭より徳とか人情を大事にする民族で、聖徳太子以来、和を旨とする民族である。しかし大東亜戦争に負けた日本は占領軍の作った憲法教育基本法で、個人の尊厳や個性の尊重ばかりを謳ったから家とか公を大事にした国柄が傷ついてしまった。公への献身は軍国主義に繋がる危険な思想などと吹きこまれ、個人主義ばかりをもてはやすことで国柄が変わってしまおうとしている。自由に利益最大化を目指して死に物狂いで競争し、すべてを市場にまかせ、どんなに格差が生まれ社会が不平等になろうと、それは能力の差によるものだから当然だ、といったことは日本のものではない。本来日本人は自分がいかに裕福になろうと、周囲の皆が貧しければ決して幸せを感じることが出来ない精神を持つ。日本人が育んできた基軸を取り戻せ。独立自尊を守ろうとし、祖国の名誉と存亡をかけて世界一の大国に対し敢然と立ち上がった日本に誇りを持て。それが本書の題『日本人の誇り』に込められた思いだろう。