佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

陰陽師 生成り姫

6月14日

陰陽師 生成り

如泡(にょほう)の喩を詠ず (沙門遍照金剛文)
 天雨濛濛(もうもう)として天上より来(きた)る
 水泡種種にして水中に開く
 乍(たちま)ちに生じ乍ちに滅して水を離れず
 自に求め他に求むるに自業(じごう)裁す
 即心の変化不思議なり
 心仏之(これ)を作(な)す 怪しみ猜(うたが)うこと莫(なか)れ
 万法自心にして本(もと)より一体なり
 此(こ)の義を知らず 尤(もつと)も哀れむべし  

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陰陽師 生成り姫』(夢枕獏/著・文春文庫)を読みました。

夢枕獏氏の陰陽師シリーズを読むのは初めてですが、主人公の安倍晴明源博雅がどのような人物なのか、あるいは陰陽師とはどのような人のことを言うのかが物語の中で丁寧に記されており予備知識のない者にも読みやすく書かれている。私は先月の29日に佐用町江川地区を訪れて安倍晴明蘆屋道満の二大陰陽師の塚を観たのが本書を手に取るきっかけとなった。
http://hyocom.jp/blog/blog.php?key=132823
本書では安倍晴明が主役格のヒーロー、そして晴明とライバル関係にあったとされる蘆屋道満が悪相の脇役として描かれている。陰陽師といえば安倍晴明がその第一人者として知られておりカリスマ性がある。夢枕氏が物語の主人公として選んだのも当然のことと思う。しかし、播磨の地に住む私としては蘆屋道満をこのように扱うことについてはちょっぴり遺憾に思うのである。というのも、蘆屋道満播磨国の出身と伝えられるからである。陰陽道の祖とされる安倍晴明に勝るとも劣らないほどの呪術力を持っていたとされ、晴明の好敵手であったのだ。晴明が藤原道長お抱えの陰陽師であったのに対し、道満は藤原顕光お抱えの陰陽師であった。要は歴史としての言い伝えはそれを残す側の権力者の思惑に左右されるのであり、朝廷側にいた晴明が「正義」とされるのは歴史の必然であって、事実がそのとおりであったとは限らないのだ。本書でも晴明は爽やかな若者、道満は老獪な人物といて描かれるが、実際は道満の方が若かったという説もある。事実はどうであったのか確かめようもないのだが、蘆屋道満が多く伝承されるように悪逆無道の人物であったとは限らない、そのことだけは記しておきたい。
とはいえ、夢枕氏の描く安倍晴明はなかなかのナイスガイであり、読者として応援せずにはいられないヒーローである。読者を惹きつけ虜にするだけの魅力に溢れている。このシリーズを全て読み通したいと思った次第。

裏表紙の紹介文を引きます。

十二年前、月の明るい晩。 堀川のたもとに立ち、笛を吹く源博雅と一人の姫。 すべては二人の出会いから始まった――。 淡い恋に悩む友を静かに見守る安倍晴明。 しかし、姫が心の奥底に棲む鬼に蝕まれてしまった。 はたして二人は姫を助けれるのか? 急げ博雅! 姫が危ない――。 シリーズ初の長篇、遂に登場。

遍照金剛」とは、弘法大師空海のことです。冒頭の詩は物語のはじめのほうに登場するのだが、空海が水泡に喩えて著したとされる詩に詠まれた真理がイメージとして物語全篇に刷り込まれている。すなわち、水の中に生じた泡がどれほど大小にその在り方を変えようとその本性が水であることに変わりがないように、人の心がどれほど変化しようとも、心の本性である仏は変わることがない、存在するもの全てと自らの心とは、もとよりひとつものなのだといったところか。
小説中主人公の二人、安倍晴明源博雅の次のような会話がある。

「なあ、晴明よ。人の心をどうにかして知る術はないものかなあ」
「人の心か」
晴明は、微笑とも苦笑ともつかぬ優しい笑みを口元に浮かべた。
「水のかたちを人に問おうというのか、博雅よ」
「水のかたち?」
「水は、丸い器に入れば丸く、方形の器に入れば方形となる。天から降れば雨となり、それが集まって流れれば川となる。しかし、水はどこでどのようなかたちになろうと、その本然がかわるものではない」
「―――――――」
「その時その時、水はある場所によってかたちをかえてゆく。水に、定まったかたちはない。博雅よ、これを名付ける術はないかとおれに問うのか――」

本書は人の世の無常とだれの心に住むおどろおどろしい業が紡ぎだした哀しい物語。生成りとは辞書によると「能面の一。女の怨霊に用いる。角が生えかけた形で、般若(はんにや)になる以前のさまを表す」とある。源博雅が堀川橋のたもとで見初めた何処の人とも知れぬ姫。月日が経つにつれ姫の容色にも翳りが見え、そればかりか姫にふりかかった哀しき定めにより心に鬼を宿すまでになってしまう。読者はこの物語を読み終えてふり返ると、始めのほうで博雅が晴明に語った「そのお方が、老いてゆく御自分に対して、心に抱いている哀しみすらも、おれは愛しいのだよ」という一言にこの哀しい物語が暗示されていたのだと知ることになる。