佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

夜の蝉

 居間の時計が一つ鳴った。十二時半か一時である。

 姉は秘密の計画を打ち明けるような小さな、しかしはずんだ声で私の耳元で囁いた。

「ねえ、口紅塗らない?」

「いい」

 人形ではない。

「何いってんのよ」

 ほんのり染まった頬に笑みが浮かぶ。

「まだいいの」

「まだいいって年じゃないでしょ。随分変わるわよ」

 姉は手を伸ばして私の後ろの水道の栓をひねった。細く水が出たらしい。白い手が横を通り、顔の前に出た。

 薬指の先が水で濡れていた。はっとした。次の瞬間、指は私の唇に触れていた。私は金縛りにあったようになり、背を流しに預け顔をしかめ目を閉じた。

 頭の後ろでチロチロと水の音がした。

 姉は水を付け替え丹念にゆっくりと、透明の虹を私の唇に引いた。

「――ざっと、こんな具合」

 姉の言葉に私は目を開いた。姉は指を洗いタオルで拭きながら、軽く続けた。

「変な子、手術でもされるような顔して」

 私は《まるで……》と心の中でいった。

 犯されたみたい、などと口に出来る筈もなかった。

                                     (本書P204-P205「夜の蝉」より)

 

 

 

『夜の蝉』(北村薫・著/創元推理文庫を読みました。

まずは裏表紙にある出版社の紹介文を引きます。


呼吸するように本を読む主人公の「私」を取り巻く女性たち―ふたりの友人、姉―を核に、ふと顔を覗かせた不可思議な事どもの内面にたゆたう論理性をすくいとって見せてくれる錦繍の三編。色あざやかに紡ぎ出された人間模様に綾なす巧妙な伏線が読後の爽快感を誘う。第四十四回日本推理作家協会賞を受賞し、覆面作家だった著者が素顔を公開するきっかけとなった第二作品集。


 

 〈円紫さんと私〉シリーズ第二作です。大学の文学部に通う「私」(名前は明らかにされていない)の日常の中にあるミステリーと「私」の成長を私小説風に描いた素晴らしい小説です。シリーズ第一作もそうでしたが、本作も短篇によって構成されています。「朧夜の底」「六月の花嫁」「夜の蝉」の三篇です。冒頭に引用したシーンは「夜の蝉」の一節です。この一節を読んでいただくだけで、この小説が単なる謎解きだけでなく、小説としての質の高さを持ったものだということが分かっていただけるのではないでしょうか。夜更けの出来事であったことを時計を一つ鳴らせることで表現し、一つ鳴ったということは十二時半か一時のどちらか判然としないというちょっとした気づきがあること。姉とのちょっとした緊張感のある会話。姉と妹の場面とはいえ、エロティシズムさえ感じるほどだ。そこからにじみ出る姉と「私」の違い。姉はもう精神的にも肉体的にも経験的にも大人だが、「私」は大学二年生であってもまだ少女の面影を残している。姉の指先が唇に触れる場面、水で濡れた指先は「薬指」なのですねぇ。その場面がディテールを伴って頭にうかぶではありませんか。水に濡れた薬指で唇をなぞることを「透明の虹を引いた」と表しています。その出来事を「私」が「まるで犯されたみたい」と感じるところからは、「私」が姉に対して持っているちょっとした対抗心と思慕の情が入り交じった複雑な心情まで表され、そのうえ「私」のうぶさ加減もでています。上手いです、凄いです、北村さん。

 

それぞれの短篇について一言ずつコメントをつけます。

 

「朧夜の月」

「朧夜の月」を「おぼろよのつき」と読むのか「ろうやのつき」と読むのか迷っていた。読み直して「朧夜の 底を行くなり 雁の声」と吟唱する場面で「おぼろよ」とルビが振ってあるのをみると、やはり「おぼろよのつき」と読むべきなのだろう。しかし、俳句の方は当然「おぼろよ」でも小説の題名は「ろうやのつき」と読むほうが語感が締まってよい気がする。物語は詩吟の会で出会った同じ大学に通う学生への恋と呼ぶのもためらわれるほどの淡い気持が描かれる。

 

「六月の花嫁」

「私」の友人・江美ちゃんが学生結婚することになる伴侶と出会ったいきさつが謎となっている。テーマは「はじらい」でしょう。「何をどれぐらい表にし裏にするかは人によって違う。その割合こそがその人らしさを作るのでしょう」という円紫さんの言葉に肯きました。

 

「夜の蝉」

「私」の姉の恋愛に関係する謎の物語。主人公の家は父母と姉の私の四人家族。父は信号待ちの寸暇を惜しんで本を読むほどの本好き。二人の娘は美人姉妹だ。姉はちょっと怖いぐらい圧倒的な美人。妹の「私」は派手さこそないものの、いくぶん少女の面影を残した美人。そんな姉妹は何となくぎくしゃくしている。子供の頃の父の愛情をめぐるお互いの「嫉妬」に端を発している。この物語はそんな姉妹の心情と、姉の恋愛にからむ嫉妬がテーマ。父の心をめぐって敵愾心のあった子供の頃、父の心が妹に向かうのを姉が許した出来事は、弟や妹を持つ人ならきっと共感を持って読むに違いない。