佐々陽太朗の日記

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『東京奇譚集』(村上春樹:著/新潮文庫)

2023/05/10

東京奇譚集』(村上春樹:著/新潮文庫)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

どうしてこんなことが起こるのだろう。

都市の隙間のあやしく底知れぬ世界へと導く5つの物語。

肉親の失踪、理不尽な死別、名前の忘却……。大切なものを突然に奪われた人々が、都会の片隅で迷い込んだのは、偶然と驚きにみちた世界だった。孤独なピアノ調律師の心に兆した微かな光の行方を追う「偶然の旅人」。サーファーの息子を喪くした母の人生を描く「ハナレイ・ベイ」など、見慣れた世界の一瞬の盲点にかき消えたものたちの不可思議な運命を辿る5つの物語。

 

 

 

 ある日突然、何かが消え去る、何かをなくす、確かだと思っていたものがそうでなくなる、そうしたことが人の心におもわず波紋を広げる。そうしたある種の不安を伴ったテイストの不思議なショートストーリー。奇譚集というだけあって、およそありそうもない話ではあるけれど、荒唐無稽とまでは言えない「ありそうもないけれど、どこかでひょっとしたらそんなことが・・・?」と思ってしまうような話だ。人はみな順風満帆に平穏な日常を送っているようでも、何かの拍子に様相が変わってしまうことがある。良くも悪くも先のことはわからない。それが人生というものだろう。なんとなくそうしたものだとわかっているから、人は自分でコントロールできない不確定なもの(それを「未来」と言い換えてもよいかもしれないが)を畏れ、警戒もするのだろう。同時に決まり切った答えがないからこそ、絶望することなく偶然を受け容れ、逆に希望を持ったりもするのだろう。そうした心もちを奇妙なストーリーに仕立て上げて読ませるのは流石と言うほかない。

 収録された五編のタイトルを揚げると「偶然の旅人」、「ハナレイ・ベイ」、「どこであれそれが見つかりそうな場所で」、「日々移動する腎臓のかたちをした石」、「品川猿」。はじめの二編「偶然の旅人」、「ハナレイ・ベイ」でいきなり物語に引き込まれた。四十数年前、大学生の頃、はじめて『風の歌を聴け』を読んで以来ずっと好きだった村上春樹は今もって私を楽しませてくれる。そして私の一番のお気に入りは次の「どこであれそれが見つかりそうな場所で」である。アメリカのハードボイルド小説を彷彿とさせる文体。まるで英語で書かれた小説を翻訳したかのような印象を受けた。そういえばデビュー作『風の歌を聴け』は英語で書いて日本語に直したという話を聞いたことがある。ひょっとしてこの短編もそうだったのではないかと思った。若かりし頃の村上春樹が好きな私にはなによりうれしいことだった。相変わらず文章は簡潔軽妙で、会話がいかしてるのもいつものこと。二つばかりそんな箇所を引いて記録しておく。

「僕は偉そうなことを言える立場にはないけれど」と彼は言った。「しかし、どうしたらいいのかわからなくなってしまったとき、僕はいつもあるルールにしがみつくことにしているんです」

「ルール?」

「かたちのあるものと、かたちのないものと、どちらかを選ばなくちゃならないとしたら、かたちのないものを選べ。それが僕のルールです。壁に突きあたったときにはいつもそのルールに従ってきたし、長い目で見ればそれが良い結果を生んだと思う。そのときはきつかったとしてもね」

「そのルールはあなたが自分で作ったの?」

「そう」と彼はプジョーの計器パネルに向かって言った。

               本書P34「偶然の旅人」より

 

「女の子とうまくやる方法は三つしかない。ひとつ、相手の話を黙って聴いてやること。ふたつ、着ている洋服をほめること。三つ、できるだけおいしいものを食べさせること。簡単でしょ。それだけやって駄目なら、とりあえずあきらめた方がいい」

               本書P92「ハナレイ・ベイ」より

 

 上に引いた文で「ひとつ、相手の話を黙って聴いてやること」は実は「ひとつ、相手の話を黙って聞いてやること」となっている。しかし私としては「聴いて」とするほうが収まりがよいので勝手に書き換えさせていただいた。失礼の段、お許し願いたい。