佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

わたしがブログを書く理由

2023/09/25

 私がブログを書き始めたのはありきたりだが日記を残そうと思ったからである。それも写真入りのものを。
 日記を書くのにいちばんオーソドックスなスタイルは日記帳に書くというものだろう。単行本ほどの大きさと厚さがあって、開くと真っ白な紙に日付やら天気やらを書く欄があり、罫線が引いてあるやつである。1年日記、3年日記、長ければ10年日記なんてものもある。念が入ったものなら、それに鍵を掛けられるようになっており、他人が盗み見ることができないものもある。こういう日記帳にブルーインクの万年筆で日々一日のおわりの儀式として日記を綴っていくというのは、多くの人がやってみたいと思ったことのある行為ではなかろうか。

           


 やってみたいと思った日記といえば「交換日記」というものもある。私が思春期にさしかかり、未だ青白き文学少年であったころ、この「交換日記」やら「文通」などというものはけっこう行われていた。そしてそうした行為は当時の青少年少女にとって途轍もなく魅惑的な行為であったのだ。自分のはなはだしく個人的な日常や心情をつづった「日記」を、それも異性と共有するという行為はなにやら秘密めいており、想像するだに妖しく蠱惑的に感じられたのである。相手との関係が人知れずより深いものになるという愉悦と言ったら、身もだえしてしまうほどであります。五分刈り頭の洟垂れ小僧には凡そ分不相応なロマンチックさに満ちあふれています。では私は果たしてそのようなヨロコビに預かった経験があったのか? それをここで語るわけにはいかない。なぜなら「A:成就した恋ほど語るに値しないものはないから」「B:やっぱりそうか、なかったんだな、ざまあみろと言わせたくないから」。さて私はA、Bのどちらでしょう。
そんなことはどうでも良い。今日のお題「わたしがブログを書く理由」に話をもどしたい。
 たしかに私のような世代にとって紙の日記帳に記す日記は正当且つ伝統的なものとして、まさに王道であって神聖且つ侵すべからざるもの、古き良き時代の美風であった。でも写真が挿入できないし、書き直し、推敲作業も不自由である。また過去に書いたことを振り返りたいとき、それを書いたであろうおおよその時季を頼りにページをめくり目で文字を追わなければならない。ブログであればキーワードによる検索でめざす記事に容易にたどり着ける。交換日記にしても、今の時代、メールやLINEのやりとりが一対一で即座にできてしまうのでほぼ絶滅しているのかもしれない。ブログを二人だけで共有することも容易だ。やはり使い勝手では電子的な日記(ブログ)に軍配があがる。
 さらに日記としてのブログという視点でもう少し深掘りしてみたい。最初に述べたとおり、私は日記を残したいと思ってブログを書き始めた。しかし日記とブログは違う。正確な表現ではないかもしれないが、ブログはあくまで「日記風の記事」である。日記とブログの違いのもっとも決定的なことはその秘密性ではなかろうかと私は思っている。片や紙の日記帳は赤の他人に見せないのが基本、それに対しブログは広く他人に読まれる前提で書かれる。もちろんブログを非公開にすることはできる。しかし、私はこのブログを日記と言いながら非公開とせず公開しているのである。
 プライベートを他人にさらすには自ずと限界がある。他人の目に触れる日記は自然と良いこと日記になる。心がけとしてネガティブな事はできるだけ書かないようにしている。良いこと日記といってもキラキラ輝いているというほどではない。しかし自分にとって幸せな日々を日記のかたちに残したい。もちろん辛いこと、イヤなことがあった日はある。そんな日は日記を書かない。それでも書くならいくぶん改竄して書く。その意味で欠落した部分がある日記である。嘘の混じった日記とも言える。でもそれが大事、それでいいと思っている。他人の目に触れるからにはやむを得ないことだろう。
 書くことが制限されてしまうのはたしかに公開ブログのマイナス面かもしれない。しかし非公開にしないのはそれを補って余りあるプラス面があるからだ。公開することによって他人との「情報の共有」ができ、他人からのレスポンスが期待できるのだ。薄く広く人とつながることができる。それこそ公開ブログやSNSの楽しみであろう。私自身、人のブログを読み情報を入手している。それは例えば本の書評であったり、旅先でのおいしい食べものや感動的な体験であったり、諸々そうしたものである。ロードバイクで旅をするときに同じ趣味を持つ人のブログを参考にルート計画を立てたりもする。もちろんネット上にはそうした情報は商業的なものとして溢れている。しかしそうした商業的なものは鵜呑みにできない。その情報の真偽を確認し補完する意味で個人のブログがたいへん役に立つ。自分の書いたブログもそうした意味で、いくぶん人の役に立てるとすれば嬉しいかぎりである。
 情報のデジタル化が進み、ネット上には日々刻々と情報が積み重なっている。ネット情報はフローからストックへとその性質を変化させている。そしてその情報はネットワークにつないだデバイスから容易に検索しアクセスすることができる。私のブログ記事もまた蓄積されていく。蓄積され未来に残されたとしても、永遠に誰の目にとまることなく、膨大な情報量の中に埋没してしまう可能性は高いだろう。私は有名人でもなければ、インフルエンサーでも、何かの専門家でもない。つまり私の書いたものなどその程度のものだ。しかし可能性はある。ストックされる限り、デジタルの情報は紙のように色褪せたり風化してしまうことはない。ひょっとして遠い未来にどこかの誰かが、何かのきっかけでふと私のブログに興味を持ち読んでくれるかもしれないではないか。そんな果報に恵まれることがあるかどうかはともかく、私がこの世に生まれ生きた記録が永く残る可能性があるのだ。私に関する記憶は私を知る人間が死に絶えれば無くなる。しかし記録は残せる。それこそが私がブログを書く理由なのだ。

 


特別お題「わたしがブログを書く理由