佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『雷桜』

「たとい江戸と瀬田村と離れて暮らしておろうとも心が通じていれば、それでよいとは思わぬか?」

「・・・・・・・・・・・・・」

                                  (本書287Pより)

 

雷桜』(宇江佐真理/著・角川文庫)を読みました。

 裏表紙の紹介文を引きます。


 江戸から三日を要する山間の村で、生まれて間もない庄屋の一人娘、遊が、雷雨の晩に何者かに掠われた。手がかりもつかめぬまま、一家は失意のうちに十数年を過ごす。その間、遊の二人の兄は逞しく育ち、遊の生存を頑なに信じている次兄の助次郎は江戸へ出、やがて御三卿清水家の中間として抱えられる。が、お仕えする清水家の当主、斉道は心の病を抱え、屋敷の内外で狼藉を繰り返していた…。遊は、“狼少女”として十五年ぶりに帰還するのだが―。運命の波に翻弄されながら、愛に身を裂き、凛として一途に生きた女性を描く、感動の時代長編。


 

 この物語は、生まれてまもなく拐かされ、文明と隔絶した山中で社会性とは無縁に奔放に育った娘・遊と、徳川将軍・家斉の息子で封建社会の上層に位置し、それこそ窮屈な社会性にがんじがらめにされた環境の中で育ち、そのために気の病に罹った清水家の当主・斉道の恋物語である。一言で言えば、身分の違う二人の恋、道ならぬ恋とは言わないまでも、ままならぬ恋である。そして、雷桜とは下半分は銀杏、上半分は桜という樹のことです。遊が拐かされた日に山に落ちた雷によって折れた銀杏に芽をつけて育った桜の樹なのです。身分が全くかけはなれた二人が寄り添う姿を象徴する樹といって良いでしょう。華やかに咲き誇る桜は爛漫たる春(人生最高の時)をシンボライズする。しかし、花は一陣の風、一夜の雨にはかなくも散ってしまいます。宇江佐氏が「雷桜」をこの物語の象徴とした意図はそのあたりにあるのでしょう。 

 あらゆる意味で美しい物語です。瀬田村という田舎の情景、なかでも里の者すら深く分け入ることのない瀬田山に咲く桜の美しさ。生まれて間もない歳で拐かされた遊を想う両親の心、兄弟の心、三人の子を孫のように慈しむ奉公人吾作の心、そして何よりも物心つかぬうちから山中奥深くで人とほとんど交わることなく育った遊の純真な心。晩秋の瀬田山の夕刻、馬上に茜色の光をあびて浮かび上がる斉道と遊。斉道は背後から遊を掻き抱き、遊は首をねじ曲げて斉道の唇を受けている。この情景がなんとも美しく印象深い。寄り添う二人の絵のような美しさは、二人の住む世界の違い故、幻のごとくはかない。しかし、それだけに至福の刹那に違いない。

 「成就した恋ほど語るに値しないものはない」とは、彼の森見登美彦氏の名言。(『四畳半神話大系』)。であれば、これほど語るに値する恋もない。いや、この恋こそ語られねばならぬ。

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 実際に雷桜が実在するなら是非観たいものだが、おそらく実在しないのだろう。しかし私は来年の春、桜咲く頃、人里離れた山の奥深く分け入ったところに咲く桜の樹の下でもう一度この物語を読みたいと想っている。