佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

ミノタウロス

 

ぼくは美しいものを目にしていたのだ――人間と人間がお互いを獣のように追い回し、躊躇いもなく撃ち殺し、蹴り付けても動かない死体に変えるのは、川から霧が漂い上がるキエフの夕暮れと同じくらい、日が昇っても虫の声が聞こえるだけで全てが死に絶えたように静かなミハイロフカの夜明けと同じくらい美しい。半狂乱の男たちが半狂乱の男たちに襲い掛かり、馬の蹄に掛け、弾が尽きると段平を振り回し、勝ち誇って負傷者の頭をぶち抜きながら略奪に興じるのは、狼の群れが鹿を襲って食い殺すのと同じくらい美しい。殺戮が? それも少しはある。それ以上に美しいのは単純な力が単純に行使されることであり、それが何の制約もなしに行われることだ。

                                     (本書P238より抜粋)

 

 

 

ミノタウロス』(佐藤亜紀・著/講談社文庫)を読みました。

 

まずは裏表紙の紹介文を引きます。


帝政ロシア崩壊直後の、ウクライナ地方、ミハイロフカ。成り上がり地主の小倅(こせがれ)、ヴァシリ・ペトローヴィチは、人を殺して故郷を蹴り出て、同じような流れ者たちと悪の限りを尽くしながら狂奔する。発表されるやいなや嵐のような賞賛を巻き起こしたピカレスクロマンの傑作。
第29回吉川英治文学新人賞受賞。


 

 

 暫し放心状態。へヴィーでした。このところライトなものを中心に読んできたので、本書はことのほかヘヴィーに感じました。そしてこの物語が日本人によって書かれたということが信じられない思いです。日本人離れしている。こんな作家、ちょっといないな。佐藤亜紀氏の小説を読むのはこれが初めてですが、読んでいて途中、ひょっとして男性作家かと疑問を持ち、ネット検索をかけて調べたほど。とにかく凄い。この凄さは読んでみないと分かりませんよ。いきなり本質に切り込む潔さというか、獲物の内蔵に平気で手を突っ込むような無頓着さというか、独特のテイストがあります。

 

 

 人間を人間の格好にさせておくのは何か、ぼくは時々考えることがあった。
  (P352)

 

 

 これは本書の一つのテーマではないかと思います。「人間を人間の恰好にさせておくもの」つまり「人が人たり得るために持っているなにか」、それを無くしてしまえば人は容易に人非人になってしまう。帝政ロシアが崩壊し、第一次世界大戦ロシア革命と流れていく時代のウクライナ地方において、暴力、殺戮、蹂躙、そしてイデオロギーもどき、時代の混沌の中で人はどんどん落ちていく。そこにはあらゆる醜いもの、忌むべきものがあります。しかし人が人たることを捨てたとき、自分が生きたい、自分のDNAを後世に残したいという欲求のみを拠り所として行動したとき、世界は極めてシンプルになる。冒頭に引用した単純な力が単純に行使される世界がそこに現出する。著者はそれを美しいと表現した。人として懊悩しながらも同時にある種の高揚を感じる。そこにあるのは頽廃であり滅びの美学でありましょう。そうしたことを佐藤氏は冷たく冴えわたった目で、しかし熱く描いた。これはもう傑作というほかないでしょう。

 ミノタウロスとは「ミノス王の牛」の意。牛頭人身の獣。太陽神ヘリオスの娘パシパエが雄牛と交わってできた罪の子。男を嬲り殺し、女を陵辱し快楽を貪る罪は、この生まれ故か。そして主人公ヴァシリ・ペトローヴィチの最後、肺と頭蓋を銃弾に打ち貫かれた死もまた罪の報いなのか。ミノタウロスは主人公ヴァシリ・ペトローヴィチの運命のメタファーといえる。殺伐とした世界、甘さのかけらもない乾いた視線、事の本質を鋭くえぐるセンテンスの数々は圧倒的な力を持って私に迫ってきた。

 「病んでいない人間にSFを読む資格はない」とは誰の言葉だったか。至言だと思う。この言葉は「SF」を「小説」と言い換えても成り立つだろう。もちろん小説は病んだ人間だけのためにあるのではない。しかし、病んだ人間にこそ読まれるべき小説がここにある。福音と云わねばなるまい。

 

(気になった記述メモ)


 

農場の上がりを歩合で取る差配は、親父には畏敬の対象だった。揺るぎない支配は神性に似ている。狡猾も、残忍も、十の子供を眠気と空腹と諦めで小さく縮んだ老人に変えてしまって顧みない冷淡も、神々の特質に他ならない。

                                       (P9)


最後から二番目のどん底は、一人息子が一言の相談もなしにオデッサで教師になると決めた時だった。息子は怖いものなしだった。どういう主義主張からか、農場の上がりはもう一銭も受け取らないと決めていて、父親のことをひどく学者じみた言い回しで、寄生虫、拷問吏、犯罪者と罵って憚らないどころか、何故そうなのかを懇切丁寧に説明した。それはちょっとした経済学講義の観を呈したらしいが、吹けば飛ぶような空理空論と言っても、おそらくは同じだろう。シチェルパートフは息子を諦めた。馬鹿を息子にしておいても仕方がない、とシチェルパートフは言った。

                                       (P18)


女はぶん殴るに限る。ぶん殴って貰いたがっているのさ。ああもお上品ぶってたんじゃ、どなたでも結構ですからあたしとやって下さいなんて言う訳にも行かん。ぶん殴ってやれば、口実ができる。悪いのはあたしじゃない、ってな。あとは始末を間違えないことさ。ぶん殴ってでもやりたかったのはあんたが美人だからだ、お上品すぎるからだと言ってやれば、女はそれでご満悦だ。

                                      (P163)


学のない連中はみんなシェイクスピアが好きだ

                                      (P174)


何者でもないということは、何者にでもなれるということだ。

                                      (P235)


 

 

(最後に蛇足ながら)

 主人公ヴァシリと行動を共にしてきたウルリヒが、ドイツ人入植者の村で一人の少女に出会い、人らしい心を取り戻したところはやるせなくも美しかった。それは彼にとってウィークポイントではあったけれど、同時に救いでもあった。彼の人生の中で、そして少女の人生の中で、はかなくも幸せの刹那であっただろう。