佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

舟を編む

「おいしい!」

 岸辺と宮本は声を合わせ、思わず焼酎をおかわりする。

 香具矢は微笑んで言った。「料理の感想に、複雑な言葉は必要ありません。『おいしい』の一言や召しあがったときの表情だけで、私たち板前は報われたと感じるのです。でも、修行のためには言葉が必要です」

 香具矢がこんなに長く話すのははじめてだ。岸辺は箸を置き、耳を傾けた。

「私は十代から板前修業の道に入りましたが、馬締と会ってようやく、言葉の重要性に気づきました。馬締が言うには、記憶とは言葉なのだそうです。香りや味や音をきっかけに、古い記憶が呼び起こされることがありますが、それはすなわち、曖昧なまま眠っていたものを言語化するということです」

 洗い物をする手を休めず、香具矢はつづけた。「おいしい料理を食べたとき、いかに味を言語化して記憶しておけるか。板前にとって大事な能力とは、そういうことなのだと、辞書づくりに没頭する馬締を見て気づかされました」

                                                      (本書P212-P213より)

 

 

 

 『舟を編む』(三浦しをん・著/光文社)を読みました。言葉に耽溺し、長い長い時間をかけて辞書を編纂する物語でした。先日は『天地明察』(冲方丁・著)で、生涯をかけて暦を作った男の物語を読んだ。またMさんに感化され『新明解国語辞典(第四版)』を時々めくってはニヤニヤしている。そのことを知った友人Yさんが『新解さんの謎』(赤瀬川原平・著)を私にくださった。近く読むつもりである。私の本読みには不思議な流れがあるように思える。その本に出会う運命というものを感じるのだ。もともと、私は体系立てた読書はしない。いきあたりばったり、手当たり次第というのが私の読書スタイルである。にもかかわらず自然と流れができるのは、きっと本の神様のおぼしめしなのだろう。

 

 さて、まずは出版社の紹介文を引きます。


玄武書房に勤める馬締光也は営業部では変人として持て余されていたが、新しい辞書『大渡海』編纂メンバーとして辞書編集部に迎えられる。個性的な面々の中で、馬締は辞書の世界に没頭する。言葉という絆を得て、彼らの人生が優しく編み上げられていく。しかし、問題が山積みの辞書編集部。果たして『大渡海』は完成するのか──。言葉への敬意、不完全な人間たちへの愛おしさを謳いあげる三浦しをんの最新長編小説。

 

舟を編む

舟を編む

 

 


 

 

 素敵な物語でした。言葉に耽溺し、辞書の編纂にすべてをかけることで人生が意味を持ち、深みを増し、やがて幸せをつかむというお仕事小説。活字中毒にはたまらない物語です。

 しをんさんらしい恋愛にも心温まる思いです。しをんさんの恋愛対象としての価値観は『仏果を得ず』と同じです。損得ではなく、自分が価値があると信じるものを仕事にする。そして寝食を忘れてそれに打ち込む。そんな人を理想としていらっしゃるのがひしひしと伝わってきます。作中で馬締さんの香具矢さんに宛てた恋文にニンマリしました。森見登美彦氏の小説『恋文の技術』に延々訥々とつづられた手紙もそうであったが、恋文の要諦は思いの丈を率直に書くことなのですね。かっこ悪かろうと滑稽だろうと私は今あなたに恋するがあまりハチャメチャなのだ、そしてその状態を救うのはあなたしかいないのだということを伝えることが肝心なのです。(と、私は思う) 良い物語を読ませていただきました。活字を、言葉を愛する者として、素直にしをんさんの想いを受け止めました。言葉は思考であり、感情であり、記憶であり、道を照らす光なのですね。

 今日は辞書萌え~~~な一日でした。